いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

短歌雑記(『光と私語』から)

わたくしに差し出される任意の数字 街じゅうの人と指を指しあう
𠮷田恭大『光と私語』「光と私語」
枚数を数えて拭いてゆく窓も尽きて明るい屋上にいる
同上
 
この世界には、事物があふれている。それらのあふれを、数として(抽象化して?)見ている、というところに、これらの歌の特徴があると思う。
 
一首目。英語のdigitには「(人の)指」という意味と、「位取り記数法で用いる数字」という意味がある。「わたくしに差し出される」数字(それは何であってもよく、あり得た他の可能性はあふれるほどたくさんある)の夥しさと、「街じゅうの人」と「わたくし」の指の夥しさは呼応し、digitとして、同一の夥しさとなる。
 
「わたくし」に示される可能性は、たくさんあるだろう、光のように多量の可能性が。
 
光あふれる街角で、それぞれの可能性を多量に充実させながら、人々が行き交い、お互いがお互いを指さす。息の詰まるような充溢を感じる。二句目六音は、可能性の充実の差し出され方のあっけなさを示し、三句目の字余りはそのままあふれてしまいそうになる。「街じゅう」の「じゅう」の音、表記も、あふれる感じを思い起こさせる。
 
二首目。一首のなかに、長い作業の持続とその完結を感じさせる。たぶん一階から始めて、上へと窓を拭きながら上っていく(作業をするひとは、屋内にいるのか、屋外にいるのか)。
 
おそらく窓は多い。窓から光が流れ込み、部屋中をあふれさせる、ここにも光の充溢のイメージ。徐々に増えていく数え上げた窓の枚数。上へと上っていき、屋上に至るとき、光は何にも遮られずに画面のなかになだれ込む。「~て、~て、~て、結果」から、上っていくさまが感じられる。
 
世界の充溢を前にして、この人は、特に何の感想も持たない。あるいは、持っても書かない。数々の指が数になるように、景色を作り出す光は白色であるように、この人も何か抽象化された、窓のようなものかもしれない。

 

妖怪が出会う 河野裕子一首評

逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと (河野裕子

 

 

実家に送ってしまって手元に河野の歌集がないので、テキストは

河野裕子 / 永田 淳【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

から孫引きをした。

 

この歌と初めて出会ったのは、高校生のとき、国語の便覧を眺めていてのことだった。読んだとき、これは妖怪の視点に立って詠まれた歌だろう、と思った。河野が有名な歌人で、この歌も有名で、といったことを当時は知らなかった。たぶんこの歌には歌人の人生に関わる背景があり、それに基づいた歌の解釈もなされてきて、それらの解釈には妖怪など少しも登場しないかもしれない。以下では、当時のぼくが直感的に読み取った、おそらくエキセントリックと言ってよい読みを紹介したい。

 

唾を眉につけたり、脇から覗いてみたりすると化け物の正体を見ることができる、というような話がある。おそらくこの妖怪も、逆立ちをすると見ることができるタイプの化け物なのだと思われる。妖怪はすっかり油断していて(どうせ誰にもおれのことは見えないのだ)、人間たちのあいだをうろついて暮らしていた。夏、子供たちが遊びまわっているなか、ひとりだけ仲間の輪から離れた子が、じっとこっちを見ている。しまった、こいつにおれは見えている! 逆立ちをしているじゃないか! しかしその子は何も言わず、じっとこちらを見ている。眺めている。まるでおれがいるのがふつうであるかのように。(変な子だ!)

 

それはたった一度きりのことだった。その子のことは、その後は見なかった。どこかへ行ってしまったのか、それともやはりおれが怖く、もうあんなもの見たくないと思ったのか。それとももう、ほかの人間たちのように、逆立ちするのをやめてしまったのか。妖怪は夏が来るたびに思い出す。なにしろ、妖怪を見たものは、見て怖れなかったものは、これまでいなかったのだ。妖怪の永い一生のなかで、あの夏が、奇妙な一点を形成する。これまで人間と関わりなく過ごしてきたなかで、あの一点は、確かに奇妙で貴重だった。

 

この読みでは、河野の歌は妖怪の孤独と、そのなかに一瞬灯った明るい記憶を映したものになる。すばらしい歌だとぼくは思う。妖怪は、人間よりずっと長いその一生で、人間たちがいなくなってからも、このことを思い出すだろう。

哲学について現時点で思っていること

Wittgensteinの著作を,とりわけ『哲学探究』や『確実性について』を読んでいるとき,これは(間違っているかもしれないが)嘘ではない,と思う.彼のような書き手がいてくれてほんとうによかった.

「嘘である」の意味を間違っているということと解する数学の慣用に慣れたひとには,先の言明は不可解に思えるだろう.先の言明で「嘘ではない」というのは,誠実である,くらいの意味である.誠実でない哲学,誠実でない学問などあるのか,と思うかもしれないが,私見では,哲学をしている間,誠実であり続けるのは難しい.

例えば,人権という概念は,全くの哲学的ファンタジーだ,と考えることができる.僕はそうは思わない.それほど,人権という概念は,確固としたものであるように僕には感じられる.しかし,これをフィクションだと思うひとがいてもおかしくはないと思う.そのひとにとっては,人権ということについて論じた哲学・倫理学の著作は,全く誠実さを欠いたもののように見えるだろう.

僕は,非哲学者がファンタジーを信じていてもよいと思う.しかし,哲学者自身は,自分の頭が作り出した概念がファンタジーかもしれないことを,常に気にしていてほしいと思う(なぜそう思うのか自分でも分からない).しかし実際は,自分が血を注ぎ込んで定義し,擁護している概念を虚構と思いたくない哲学者が大半と思う.哲学をしている間誠実であり続けるのは難しい,と言った理由はこれである.

Wittgensteinは,しかし,自分の編み出したファンタジーが嘘であることを,常に気にしていたような気がする.彼が書いたものを読むと安心する.彼は,哲学的問いを(賛成はしないにしても)(ほんとうの意味で)理解しないということはなかったのではないか,という気がする.繰り返すが,彼のような書き手がいてくれたことは救いである.

パーティーを開く理由:ウルフ『ダロウェイ夫人』

「誰それがサウス・ケンジントンにいる。べつの誰かがベイズウォーターにいる。またべつの誰かがたとえばメイフェアにいる。わたしはたえずその人たちの存在を意識しつづけている。そしてなんてむだなことか、なんて残念なことかと感じる。その人たちを一緒に集められたらどんなに素晴らしいだろう。だからわたしは実行に移すのだ。それは捧げ物なのだ。人びとをむすびあわせ、そこからなにかをつくり出すってことは。でも、誰にたいする捧げ物なのだろう?」(ウルフ, V.『ダロウェイ夫人』(丹治愛訳)、集英社、2007年、p.218)。

 ダロウェイ夫人は、自分の天賦の才能として、この捧げ物を捧げることを、つまりパーティーを開くことを挙げる。彼女が追求する「人生」というものでは、人びとはさまざまな場所に散らばっており、しばしば互いのことを知らずに暮らしている(もっとも、ダロウェイ夫人は、パーティーの主催者は、各々の人びとにずっと注意を払っているのだけど)。人生というものは、多かれ少なかれそのような特徴をもつ、出会うべき人に出会いそこねていて、出会いそこねていること自体も知らない、という特徴を。

 存在というものにとって、距離はどのくらい本質的なのだろう。人生が、重要人物たちがまばらに散らばっている散漫な構造をしているなら、各々は互いに対して距離を抱え、そして距離を抱えていること自体にも気づかないなら、そして人生というものが、実存という名前を通していくらか存在に関わっているなら、存在は確かに距離という変数をもつのだろう。パーティーを開くのは、この距離への反抗というか、逆襲だと言える。パーティーの主催者は、距離のせいで人生がつまらなくなっているのを知っているから、人びとを一か所に集めることで人生に彩りを添えようとする。こんなに素晴らしい人たちのことを、どうして知らないままでいていいだろう? 広大な宇宙のなか、本来なら孤独に一生を終えていたはずの人びとが、パーティーによって出会う。

 孤独な生は、死んでいる生と一緒かもしれない。ならば、パーティーを開くのは、生きるためだ。パーティーを開いているあいだ、ぼくたちは死を忘れる。

 

「なんと異様で、奇妙で、けれど感動的な光景なのかしら。ほんとうに長いあいだお隣同士だったあのおばあさんが、まるでこの鐘の音、この音の連鎖とつながっているかのように窓から奥へ退いてゆく光景は」(同、p. 227)。

「実際、まさにこれこそが至高の神秘なのだ――こちらにひとつの部屋があり、向こうにもうひとつの部屋がある、ということが」(同、p. 228)。

 窓の外に、老婦人が向かいの家の部屋のなかで動いているのをダロウェイ夫人は見る。そしてこんなことを考えている。確かにダロウェイ夫人は老婦人のことを意識しているけれど、老婦人はダロウェイ夫人に気づいていない。そしてダロウェイ夫人はただ眺めている、老婦人になんの干渉もせずに。老婦人は誰にも邪魔されず、自動人形のように鐘の音に合わせて動く。

 確かに、距離を詰めるというのは人生を楽しくするひとつのやり方だろう。人に影響し、影響され生きるのは、疲れるけれど楽しいだろう。しかし、距離をとったまま、眺めるという人生が、お互いに相手のことを知らんぷりして静かに宇宙の調和に満たされながら生きるという人生が、ある。

 人生がひとつの失敗のように思えるときがある。いや、あるのだろう。ぼくがもっと年をとったら、きっとそう思うだろう。ぼくはパーティーに呼ばれなかったし、呼ばなかったのだ。しかし宇宙に響く音楽に身体を浸して生きることは、成功のない人生を生きることは、ひとつの美しさをもっている。そして心安らかに存在を閉じるのだろう。その心安らかさは、不思議と捧げ物を捧げる気持ちに似ているのかもしれない。

 

ことばは人を孤独にする(いくつかのテキストによせて)

 周りの人たちを見ていると、ことばが巧みな人は、「孤独」と言ってもいいかもしれないものを抱えているように見えることが、多い気がする。と言っても、観測した例は三人くらいだし、「ことばが巧みな人」ってどういう基準があるんだと言われたら答えられないし、その人たち自らが「わたしは孤独だ」と言っているのを見聞きしたわけでもない。特に最後の点について、寂しそう、と僕が思ってしまっただけで、彼女ら・彼らにしてみれば、勝手に人の心の内を推察するな、という話だろう。

 ことばは人を孤独にする。と言うと因果関係があるかのようだが、言語運用能力の高さが孤独を招き寄せるのか、孤独がことばの力を伸ばすのか、よく分からない。どっちもあり得るだろうと思う。いくつかの仮説を検討してみよう。

 1) 言語運用能力が高い人は、人とのコミュニケーションに失敗しやすい。真っ先に僕に浮かんだのはこの仮説だ。ふつう逆なのではないか、ことばが巧みなら、人と話すときもすらすらことばが出て、会話は円滑に進むのではないか、というのは、もっともらしいがそんなことはないと思う。会話でふと相手がもらした一単語を聞き分け、そのニュアンスを解析し、それが示唆する含意を汲みつくす。言語に対する理解の高い人は、こういうことをする。そして、ことばの、自らが析出した意味に、落ち込み、反論し、時にはもう二度とこの相手とは話すまい、と決める。

 言語運用能力が高い人がしばしば「見落とす」のは、ふつう人間はそんなに考えてことばを使っていないという事実だ。人は自分の感じたことをすばやくことばにするのに集中するあまり、ことばの正確な意味や、使われるべき文脈のことを考慮することができない。だから、自分のことばが十全に意味を伝えたとき、相手にどんな効果を与え得るか、正確に見積もることができない。もし話者の意図が何らかの仕方でことばの意味に関係するとしたら、そもそもこうした人々は、言語運用能力の高い人が受け取るような細部の「意味」を、意味していないということもあり得る。しかしことばの分析が上手い人は、相手が意図しなかった「意味」まで汲み取ってしまう。こうしてコミュニケーションは失敗する。

 先ほど「見落とす」と言ったが、この表現は現実に即していないと思う(僕自身、正確にことばを使えていないわけだ)。実はことばが巧みな人は、相手がことばを使うに際してあまりよく考えていないことをわきまえていることが多いのだと思う。しかしそれでもなお、ことばの意味の深いところを汲み取ってしまう。この点についての事情は、人によって様々だと思う。人はしばしば大げさに話すが、それを(ことばに忠実であろうとするあまり)そのまま受け取ってしまうのか。相手のことばへの無関心に我慢がならず、自分と同じくらい考えてことばを使うのが妥当だと考えているのか。ともかく、頭では、人はそれほどコミュニケーションに頭脳を用いていないと分かりつつも、それを実践に生かすのはたぶん難しいことだ。

 2) 孤独を解消するために、ことばの運用を覚えていった。これの一番分かりやすい例は、要は、人と上手に話せないので、上手に話せるようにことばの筋肉を鍛えていった、などの例だ。ただ、本当にことばが巧みになることで上手に話せるようになるなら、今孤独を抱えることにはなっていないはずなので、この例に説得力はない。むしろあり得るのは、孤独を、活字を読むことで癒していた結果、いろいろなことばを覚えてしまった、という例だ。その結果、言語運用能力が高まり、仮説1)が適用されるような状態になり、ますます孤独になり、さらに活字を求める。かなりあり得そうな話だと思ってしまう。

 3) ことばは人を孤独にするわけではない。人間はだいたい孤独なのだが、ことばが巧みだとその孤独を上手に表現できるため、彼女・彼が際立って孤独だとわれわれは思い込みやすいだけだ。これもあり得ると思う。だが、「孤独が上手に表現されると、それを認知した他人が孤独を癒してくれることもある」と仮定すると、ことばが巧みな人ほど孤独から脱しやすいことになり、寂しさを表現することもなくなるはずだ。だとしたら、孤独の表現と孤独を結び付けるこの説は、どこか傷があるか、あるいは補助仮説が間違っているかだろう。

 以上、勝手に人の感情を推察した。こうした議論は、当事者の自己理解に貢献するかもしれない(しないかもしれない)。僕としては、孤独な人よ、強く生きてくれ! と思うだけだ。僕がなんでこんな話をし始めたかと言うと、このブログ(レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』愛の自家中毒 - 人間の話ばかりする (hatenablog.com))を読んで、テキストを介した交流ってあるよな、と思ったからだ(参照ブログのすばらしさに対して、僕の考察のお粗末さよ!)。生身の人間というのは面倒くさい。死んだら腐る。しかし、人間を直接相手にするのではなく、人間の書いたテキストを対象にするとき、透明な板を間に挟んで相手と向かい合うような、そういう安心感がある。テキストは腐らない。

 よく哲学者が、他人と自分の間に膜があるような感じがして嫌だ、それが自分が哲学を始めた理由だ、みたいなことを言う(確か、N先生がそういうことをおっしゃっていた)。僕は時々分からなくなる。直接的であること、真摯であること、生きていること、などは、確かにすばらしい、きっと(これらの属性を並置することが、そもそも正しいのか、僕にはよく分からない)。ただ、他人と隔たっていないのは、僕にはちょっと気持ち悪い。それに、テキストを介した交流こそ直接的な交流だ、という考えも存在する。ことばがまずあって、ことばの間に人間がいるに過ぎないと考えるならば。この考えも、人間のちっぽけさを感じさせてくれて、僕は気に入っている。テキストという美しい透明な結晶があって、人間はその間を流れる液体にすぎない、ならば、どうだろう。この場合孤独かどうかはどうでもよくなる。

 この考え方をとらないとして、隔たっていて孤独だとしても、それはそうあるべきだという気がする。

 (あと、ことばに限らず、何かに卓越した人の孤独、みたいな話にも興味があるのだが、それはまたいつか。)

 

いつか行ってしまう友人のこと:榊原紘「悪友」から一首

 (さかきばらさんの「榊」はカタカナの「ネ」に似たほうの示偏のようなのですが、変換できないので代用しています。すみません。)

 

 立ちながら靴を履くときやや泳ぐその手のいっときの岸になる (「悪友」)

 

 

 榊原紘さんの連作「悪友」(『ねむらない樹 vol.4』、2020年、書肆侃々房、所収。第二回笹井宏之賞大賞受賞作)から一首引いた。どこでかは忘れたけれど、この歌が引かれているのを見たような気がするから、客観的に見ても優れた歌なのだと思う。僕は、技術的にもいいし、名歌だと思っている。

 真っ先に目が行くのは、下の句の「その手のいっと/きの岸になる」という句またがりだろう。ここの引っかかる感触が、一首が簡単に読み下され、消費されてしまうことを防いでいるように思う。あと、「やや」に見える微細なものへの感受性も心をくすぐられる(口の悪いことを言うと、「やや」と言っておけば微妙な細部に注目できている感を演出できてしまうところはあるように思うので、安直だとも言えそうだが、この歌ではそういう嫌な感じはしなかった)。あと、手が不安定にさまよっている様子を、「目が泳ぐ」などの慣用表現を想起させながら、そして実際の手ぶりを上手く映像化しながら自然に「泳ぐ」と言ってみせ、縁語的に「岸」へとつなげる、巧みさもすごい(「泳ぐ」には「前のめりになってよろめく」という意味もあるらしいので、比喩とは厳密には言えないのかもしれない。しかし、ここでは前のめりになっているというより、水をかくように手をふらふら前後させている、という感じだと思う)。

 連作「悪友」は、作中主体が「悪友」と呼んでいる、作中主体にとって特別な存在のことを歌っていると読むのが自然な一連で、作中主体は「悪友」のことを慕いつつ、どこか遠慮している印象を受ける。特に証拠があるわけではないけれど、作中主体が「悪友」を大切に思っている一方で、「悪友」のほうはそんなに作中主体のことを思っていないのではないか、それが分かっているから作中主体は遠慮しているのではないか、という気がする。こうしたことを仮定して、引いた一首を見てみることにする。

 深読みをしてしまうのは、「いっときの」というのが、靴を履くときの一時的な助けというだけでなく、作中主体と「悪友」の交友関係の一時性のことも言っているのではないか、ということだ。たぶん、靴を履いてしまえば、「悪友」は僕の元から去ってしまうのだ、たとえ僕が「悪友」のことをどんなに思っていたとしても。この想像がより切実になるのは、僕が「悪友」が靴を履くのを手伝っていることに由来する。靴を履くのは、外に出かけるためだと考えられる。「悪友」が広い外の世界へ出ていき、様々な事物に出会っていく、そのほんの最初を手伝うだけの僕は、様々な出会いを経た「悪友」の心から、いつか忘れ去られてしまうだろう。そのことが僕には分かっていて、それでも「悪友」に外の世界を見せてあげたいから、僕はよろめく「悪友」に手を差し出すのだ。僕を、広い大海へ出ていく前につかまる、ささやかな「岸」にしてくれと思いつつ。

 こんな想像をしていると、ついつい僕は感傷的になってしまう。なんでこんなに感傷的になってしまうのか。一つのありうる原因は、作中主体の「悪友」への思いの大きさに比べて、きっと「悪友」の作中主体への思いは随分と小さく、不均衡になっていることに、切なさを感じてしまうからだろう。主人公のことを思っていて、主人公を救うために死ぬが、後で主人公に名前を忘れられてしまう雑魚キャラに抱くのと同じ気持ちかもしれない。ただ、実際にある人間関係はそんなに美しいものではないと思う。このような感情の不均衡が現実にあったとして、思いを大きくする側は、自分の身勝手な理由で思いを募らせているだけ(相手が自分にないものを持っていて、好奇心からつい観察したくなってしまうとか)で、本当は対象のことなどどうでもよかったりする。確かに向こうはいつか自分のことを忘れてしまうが、それはこっちも同じで、思いを大きくする側も興味がなくなれば忘れてしまう。連作「悪友」の作中主体にこんないやらしさは感じないけれど、感傷がこんな理由で生じているとしたら、まず感傷を抱く側が、自分は身勝手な人間でないかを反省せねばならない。

 感傷のありうる原因の二つ目は、作中主体と「悪友」の関係が一時的なものであるということそのものにあるのかもしれない。つまり、関係が持続しないものだということに、感傷の原因がある。持続しないということは、未来がないということで、関係を失ってしまうことへの怖れ、その怖れから来る「今を大事にせねば」という気持ち、関係が失われてしまうことを予期するがゆえのなつかしさの前借り、こうしたすべてが、感傷を生じさせるのかもしれない。

 僕にはこの説はしっくりくる。時間が一方向に流れるということに基づいた、関係が失われてしまうことへの憂愁と、それゆえの関係への没頭・美化のようなものは、確かにあると思う(以前、時間の構造とそれに由来する感情というこのテーマを、穂村弘の歌を織り交ぜながらエッセイに書いたことがある。『本郷短歌』第五号に載っている)。他方で、これで僕の感傷が説明できるとして、なんか考えすぎじゃない? 感傷的すぎない? とも思う。だいたいにして「悪友」が南極に行こうが宇宙に旅立とうが、今はEメールがある。確かに「悪友」の心に僕が占める割合と、僕の心に「悪友」が占める割合は減るかもしれない。しかし、いつだって連絡がとれるじゃないか(あなたが死んだり、僕が死んだりしない限りは。こればかりはどうしようもない)。何を悩んでいるのか。靴を履いて、一緒に外へ出ていこう。その先のことは、その後で考えればよい。

 こうして感傷は解決するだろう。しかし、関係が一時的であるという性質に、何か重要な香りが染みついているのを感じざるを得ない。しかしそれは、感傷という感情を伴うものではない。むしろ驚きに近い。それはこうだ。なぜ、あなたとぼくの関係などというものがありえたのか。なぜそんな不可能なことが? あるいはこうかもしれない。なぜ、あなたとぼくの関係だけではないのか。なぜ、それだけで世界が満たされていないのか? 何人かの哲学者が霊感を得ているのはおそらくこうした問いであり、解答が得られるかはともかく、この問いを問いたくなる心性が少し僕には分かる気がする。

 

(連作「悪友」には、転生というモチーフが見られる。同じくこのモチーフを含む「手紙魔まみ」と、「悪友」を比較するのは、それなりに面白いのではないかと思う。)

 

 

 

 

連作7首_さしだしもの(M・Mに)

死者とはなす口もたぬゆえときどきは中空にそよと泳がす目

 

 

やった! かつ丼だ! しかし豚さんのスマイルぼくに投げかけられて

 

 

焼くと色が変わるのってよいよね 赤いままだと食べられなかった

 

 

死者にくちないわけでなくたとえば垣根の椿などにはたぶん

 

 

きみのことを思うのはきみが死んだからか風車(ふうしゃ)が霧をかき回している

 

 

ささやくのも張り上げるのも同じこと こちらがあまりに小さいときは

 

 

花が咲くように世界の耳はひらき ことばも水もさしだすもの

 

 

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以上。M・Mにささげる。