いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

覚え書き:『ケミストリー』(ウェイク・ワン著、小竹由美子訳)

 『ケミストリー』(ウェイク・ワン著、小竹由美子訳)を読んだ感想を、以下に書かせていただく。だいぶ前に読んだので、忘れてしまった箇所も多いが、とりわけ印象に残ったことを、二、三点記しておく。

 

 まずはつまらない指摘から。本の帯で、「血のにじむ努力で移民した両親の期待に応えられない自分を持てあます、リケジョのこじれた思いが行きつく先は――。」というふうに本の内容が紹介されているけれど、主人公に「リケジョ」というラベルを貼ってすましているのはいただけないなあ、と思う。確かに、主人公は化学専攻の博士課程の学生だし、主人公の語りの中には科学の豆知識が散りばめられ、そのいくつかは重要なモチーフになっている。しかし、「リケジョ」という言葉そのもののよさ/悪さについては措くとしても、このラベルが主人公を十分に規定できている気はしない。「リケジョ」というラベルからは軽々とはみ出してしまうほどに、主人公の性格は具体的で、個別的だからだ。

 

 次に、文体について。本文は、主人公の独白からなっている。一パラグラフがかなり短く、内容もパンパン切り替わるので、読者はさくさくと読み進めることができる。いわば、短い断片が連なってできている感じ。しかし、そのような軽さのわりに、不思議と読書の充実感がある。昔読んだ、シルヴィア・プラスの詩(の日本語訳)に近いかもしれない。このような文体は、主人公の頭の回転の速さ(感覚や思考が世界を捉え、先に進んでいくときのスピードの速さ)を示していると思われる。日本語でこのような文体を形成したことについては、訳者の工夫がしのばれる。

 

 さて、内容の話。一番印象に残ったのは、主人公の母親のことだ。主人公の母親は、上海で不自由のない子供時代を送り、記憶力を生かして薬剤師になる。そして、大学で学ぶために田舎から出てきた主人公の父親と結婚し、主人公を出産する。ところが、主人公の父親がアメリカに留学したいと言い出す。主人公の母親は、夫と子供とともにアメリカに渡ることを決意し、金銭面でも夫を支える。アメリカに渡った主人公の父親は、驚異的なスピードで博士号を取得し、エンジニアとして成功する。

 ところが、主人公の母親は英語ができず、アメリカ社会に溶け込めない。アメリカでの薬剤師の免許も取れない。夫婦喧嘩は絶えず、主人公にもつらくあたってしまう。中国に電話をかけて、家族や友人と話すのが日課になる。

 主人公の父親は、自分の能力を開花させ、さまざまなものを手に入れた。しかし、主人公の母親の方は、自分の力を発揮する機会を奪われ、いわば、彼女「自身」のために生きることを中断せざるをえなくなった。夫のために、自分の人生を部分的に犠牲にしたと言っていいと思う。

 それなのに、主人公の母親は、夫と生きることをやめようとしない(もちろん、夫婦喧嘩のときは大いに夫を攻撃するのだが)。どうやら、その人のせいで自分の人生の道を曲げざるをえなかったというような、そのような関係にある人とさえ、不思議と人は一緒に生きていけるようなのだ。この関係を日本語で一言で言うなら、「縁」みたいなものだろう。この「縁」は、よいとか、悪いとかいったような評価を受け付けず、ただ関係として存在するだけだ。人生の道をゆがめるというような、われわれが不幸だろうと思う関係でさえ、この関係が結び付けた人々を導くことがありうる。そしてその人たちにとって、関係が「よい」ものであるとか、「悪い」ものであるとかいったことは、どうでもよいことでありうる。

 主人公の母親と父親の間にある種類の関係は、二人の間だけにあるものではない。主人公も、幼いときに母親からつらくあたられて、いまだにそれがトラウマとして残っているのに、なぜか母親のことを嫌いにならない。ここでは、受けた傷の痛みはまだ忘れられていないのに、その傷があるということが人を結び付けているようだ。

 正直に言うと、なぜ主人公の母親が、主人公の父親を憎み、怒り、家族を捨ててどこかに行ってしまわないのか、僕にはよく分からない。以上に述べた「縁」の話は、僕がそんなものがありうるかもしれないと想像したものに過ぎない。だが、『ケミストリー』は、この謎めいた関係の秘密を、読者に提示しているように思われる。久しぶりに読んだ小説が、このようなものでよかった。