いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

杉並区周辺のスケッチ(2)

 探偵業を引退した後、エルキュール・ポアロはかぼちゃ栽培に勤しんだという。同じかぼちゃ栽培をわが天職と考える私にとって、ポアロは憧れの存在である。私も今の仕事をやめたら、思う存分かぼちゃを栽培したいと思っているが、実現するか、それはいつなのか、全く見通せないでいる。

 

 私のかぼちゃ栽培は少し変わっているかもしれない。よいかぼちゃを育てるには、よい土が必要である。私は電車に乗って、街へ出る。そして駅で、デパートで、本屋で、よい土を探す。がりがりに痩せていたり、目の下に隈ができていたり、現実の街を歩いているのにまだ夢を見ているかのように見えたり、そんな人物が望ましい。きっとそうした人たちは、ひとたび眠りに落ちればよい夢を見る。私はそうした人々の頭にかぼちゃの種を蒔く。

 

 あとは放っておくだけである。たいていの人は毎日風呂に入るので、かぼちゃに水をやる必要はない。あとは各々の人間が夢を見るたびに、かぼちゃは栄養を吸い取り、育っていく。だいたい六か月くらいで収穫である。頭にかぼちゃが育っている人を、私は簡単に見分けることができる(私が育てるかぼちゃは、独特の芳香を放つ)。私は力を込めてかぼちゃを持ち上げ、土になってくれた人にそっとお礼を言い、収穫を祝う宴の準備をする。

 

 収穫したかぼちゃは、私が独り占めして食べることもあれば、私の友人たちを家に招いて一緒に食べることもある。かぼちゃは煮つけに限る。私たちは夢見心地で食べるが、結局は吐いてしまう。食べ始めはおいしいのだが、食べ進めるにつれてかぼちゃは泥のまずい部分を凝縮したような味に変化する。しかし私が、はじめのすばらしい味わいよりも、この嘔吐のためにかぼちゃを育てていると知ったら、読者諸君は眉をひそめられるだろうか――、私たちは、他人を嘔吐させるために夢を見るのだ。