いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

ことばとことばをつなぐ橋:牛尾「TOKYO 2020」

 さっき読んだばかりなんだけど、牛尾今日子さんの短歌連作「TOKYO 2020」(【短歌7首】TOKYO 2020 — 牛尾今日子 – うたとポルスカ (utatopolska.com))が、心地よく心に引っかかっているので、感じたことを急ぎまとめておく。

 

 ポケットに財布の入るジャンパーで外出をする 外出はいい (四首目)

 

「外出はいい」というのは、「外出は要らない」ではなく、「外出はすばらしい」だと読んだ。財布をポケットに入れられるので、手ぶらでコーヒーを飲みに行ったりできる。僕にも覚えがあって、ジーンズのポケットというのは狭くてけちくさいものだ。財布など入りやしない。この悩みが、秋冬になると解消する。

 

 四句目までで詠まれているのは、この一回の外出という単なる外出トークンなのだが(あるいは、タイプだと読めるとしても、秋冬の外出という限定された外出タイプなのだが)、五句目では限定なしの外出一般を称えている。このトークンからタイプへの飛躍に、作中主体の愛すべき軽率さ、そしてその軽率さを促す手ぶら外出のすばらしさを、読者は感じることができる。

 

 とここまで書いたんだけど、僕はこの一首のよい読者ではない。はじめに読んだとき、僕は四句目の後の字空きを見逃してしまい、「~で外出をする外出はいい」と、つまり四句目までが五句目にかかっていると読んでしまって、「すごい!」と思った。ふつうそういうことが言いたいなら、「~で外出するのはいい」と言うはずだ。しかし、僕が誤読した通りなら、冗長な表現――正確に言えているかわからないが、自分を修飾するのに自分自身を使ってしまっているような――になる。これは単に僕の誤読だとしても、この連作には、こうした誤読を許容する雰囲気がある。作者が歌を構成する際に、言語の機能に対しまなざしを向けているのが感じられるからだ。

 

 糸端が裾から垂れるびろびろをむしり取る手に力を込めて (三首目)

 

上の句に注目したい。作者はここで何かを狙ってこの表現をしているのだが、その狙いを自分が読み解けているのか、僕には自信がない。自説を述べておこう。検索したところ、「糸端」というのは毛糸玉の糸の端のことなどらしい。一句目・二句目は、服の裾がほつれて、糸が裾から垂れているのを言っているのだと思われる。

 

 では、「びろびろ」とは何だろうか。たぶん、文法(?)に忠実に読めば、裾があり一定の面積を持つ布のことなのだと思う。というのは、「糸端が〔その=びろびろの〕裾から垂れるびろびろを」と補えるからだ。「びろびろ」というのは、はみ出したりしていてはためく布のことを言うだろうから、「びろびろ」は「裾がある一定面積の布」のことだというのは、受け入れてもよい。しかし、一定の面積がある、しかも裾を持つ布を「むしり取る」場面ってどんなものだろうか。むしろこの一首の場面でありそうなのは、ほつれた糸を「むしり取る」ことなのではないか。

 

 では、「びろびろ」とは「糸端」のことなのか。しかし、文法的にそう読めるのか。例えば、「ラーメンが椀からこぼれるラーメンを」って言えるだろうか。言えるとして、はじめに出現する「ラーメン」と二番目に出現する「ラーメン」が同じものだと読めるだろうか。

 

 たぶん、作者の狙いはここにあるのだと思う。文法(というより、日本語話者が日本語の文を読むときに想定しがちな文の構造についての理論)と、日常生活で通常起こること――それは普通の状況で文がたいてい表現することでもある――についての理論を使うことによって、作者は読者の解釈が定まらないようにしている(ここではDavidsonが言う「寛容の原則」が逆手に取られているとも言えよう)。解釈の定まらなさは、ここでは読者に心地よい違和感を残す。

 

 ほんまそれって敬体で言う言い方も分からないまま言わなくなって (一首目)

 

「敬体」というのは、「です・ます調」のこと。僕は西日本にいたことがないので、「ほんまそれ」というのは関西弁で、関東の人の言う「ほんとうにそうだよね」に相当するのであろうということしかわからない(関西の中でもいろいろな方言があると聞くので、関西のもっと狭い地域での言い方なのかもしれない)。方言のことはまったくわからないのだが、各々の方言にも「です・ます」とは異なる敬体があるのだろう。

 

 「ほんまそれ」の敬体を知らないまま、(おそらく別の方言を使うようになって)「ほんまそれ」を言わなくなってしまった。常体/敬体は日常生活の場面ごとに使い分けるものだろうから、敬体を知らないというのは、日常生活のあるタイプの場面を――敬体なら、立場が上の人と話す仕事の場面などを――その言語の話者としては体験しなかったということでもある。作中主体は、その言語共同体の「成熟した話者」とならないまま、常体と敬体のあいだにかかる橋を構築しないまま、常体も使わなくなってしまった。

 

 2020年のTOKYO アホちゃうかと馬鹿じゃないののどっちを言おう (五首目)

 

しかしどうやら、作中主体の中で、関西弁と標準語のあいだの橋は構築されているようだ。東京はあくまで日本の一都市なのに、「TOKYO 2020」と言われると、東京というより日本のことが想起されてしまう。「TOKYO」が日本になりかわり、その哀れさと滑稽さを背負っている状況を、「馬鹿じゃないの」は東京の人として真っ向から批判している感じが、「アホちゃうか」はもうひとひねりして批判している感じが、僕にはする。どの言語を選ぶかということは、時に、自分が何者として、どんな聴衆に向かって語りかけるかを決めるということだろう。作中主体は、関西弁と標準語をしっかり自分の選択肢としたうえで、どちらを選ぶか考えている。

 

 ことばがどんなふうに話し手と聞き手に作用するか考える。そして、必要な作用を生み出せるように、自分の使えることば同士に橋を架け、使える武器を確保しておく。冷静な表現者はこのことを忘れない――、選択肢がなければ選べないのだから。