いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

いつか行ってしまう友人のこと:榊原紘「悪友」から一首

 (さかきばらさんの「榊」はカタカナの「ネ」に似たほうの示偏のようなのですが、変換できないので代用しています。すみません。)

 

 立ちながら靴を履くときやや泳ぐその手のいっときの岸になる (「悪友」)

 

 

 榊原紘さんの連作「悪友」(『ねむらない樹 vol.4』、2020年、書肆侃々房、所収。第二回笹井宏之賞大賞受賞作)から一首引いた。どこでかは忘れたけれど、この歌が引かれているのを見たような気がするから、客観的に見ても優れた歌なのだと思う。僕は、技術的にもいいし、名歌だと思っている。

 真っ先に目が行くのは、下の句の「その手のいっと/きの岸になる」という句またがりだろう。ここの引っかかる感触が、一首が簡単に読み下され、消費されてしまうことを防いでいるように思う。あと、「やや」に見える微細なものへの感受性も心をくすぐられる(口の悪いことを言うと、「やや」と言っておけば微妙な細部に注目できている感を演出できてしまうところはあるように思うので、安直だとも言えそうだが、この歌ではそういう嫌な感じはしなかった)。あと、手が不安定にさまよっている様子を、「目が泳ぐ」などの慣用表現を想起させながら、そして実際の手ぶりを上手く映像化しながら自然に「泳ぐ」と言ってみせ、縁語的に「岸」へとつなげる、巧みさもすごい(「泳ぐ」には「前のめりになってよろめく」という意味もあるらしいので、比喩とは厳密には言えないのかもしれない。しかし、ここでは前のめりになっているというより、水をかくように手をふらふら前後させている、という感じだと思う)。

 連作「悪友」は、作中主体が「悪友」と呼んでいる、作中主体にとって特別な存在のことを歌っていると読むのが自然な一連で、作中主体は「悪友」のことを慕いつつ、どこか遠慮している印象を受ける。特に証拠があるわけではないけれど、作中主体が「悪友」を大切に思っている一方で、「悪友」のほうはそんなに作中主体のことを思っていないのではないか、それが分かっているから作中主体は遠慮しているのではないか、という気がする。こうしたことを仮定して、引いた一首を見てみることにする。

 深読みをしてしまうのは、「いっときの」というのが、靴を履くときの一時的な助けというだけでなく、作中主体と「悪友」の交友関係の一時性のことも言っているのではないか、ということだ。たぶん、靴を履いてしまえば、「悪友」は僕の元から去ってしまうのだ、たとえ僕が「悪友」のことをどんなに思っていたとしても。この想像がより切実になるのは、僕が「悪友」が靴を履くのを手伝っていることに由来する。靴を履くのは、外に出かけるためだと考えられる。「悪友」が広い外の世界へ出ていき、様々な事物に出会っていく、そのほんの最初を手伝うだけの僕は、様々な出会いを経た「悪友」の心から、いつか忘れ去られてしまうだろう。そのことが僕には分かっていて、それでも「悪友」に外の世界を見せてあげたいから、僕はよろめく「悪友」に手を差し出すのだ。僕を、広い大海へ出ていく前につかまる、ささやかな「岸」にしてくれと思いつつ。

 こんな想像をしていると、ついつい僕は感傷的になってしまう。なんでこんなに感傷的になってしまうのか。一つのありうる原因は、作中主体の「悪友」への思いの大きさに比べて、きっと「悪友」の作中主体への思いは随分と小さく、不均衡になっていることに、切なさを感じてしまうからだろう。主人公のことを思っていて、主人公を救うために死ぬが、後で主人公に名前を忘れられてしまう雑魚キャラに抱くのと同じ気持ちかもしれない。ただ、実際にある人間関係はそんなに美しいものではないと思う。このような感情の不均衡が現実にあったとして、思いを大きくする側は、自分の身勝手な理由で思いを募らせているだけ(相手が自分にないものを持っていて、好奇心からつい観察したくなってしまうとか)で、本当は対象のことなどどうでもよかったりする。確かに向こうはいつか自分のことを忘れてしまうが、それはこっちも同じで、思いを大きくする側も興味がなくなれば忘れてしまう。連作「悪友」の作中主体にこんないやらしさは感じないけれど、感傷がこんな理由で生じているとしたら、まず感傷を抱く側が、自分は身勝手な人間でないかを反省せねばならない。

 感傷のありうる原因の二つ目は、作中主体と「悪友」の関係が一時的なものであるということそのものにあるのかもしれない。つまり、関係が持続しないものだということに、感傷の原因がある。持続しないということは、未来がないということで、関係を失ってしまうことへの怖れ、その怖れから来る「今を大事にせねば」という気持ち、関係が失われてしまうことを予期するがゆえのなつかしさの前借り、こうしたすべてが、感傷を生じさせるのかもしれない。

 僕にはこの説はしっくりくる。時間が一方向に流れるということに基づいた、関係が失われてしまうことへの憂愁と、それゆえの関係への没頭・美化のようなものは、確かにあると思う(以前、時間の構造とそれに由来する感情というこのテーマを、穂村弘の歌を織り交ぜながらエッセイに書いたことがある。『本郷短歌』第五号に載っている)。他方で、これで僕の感傷が説明できるとして、なんか考えすぎじゃない? 感傷的すぎない? とも思う。だいたいにして「悪友」が南極に行こうが宇宙に旅立とうが、今はEメールがある。確かに「悪友」の心に僕が占める割合と、僕の心に「悪友」が占める割合は減るかもしれない。しかし、いつだって連絡がとれるじゃないか(あなたが死んだり、僕が死んだりしない限りは。こればかりはどうしようもない)。何を悩んでいるのか。靴を履いて、一緒に外へ出ていこう。その先のことは、その後で考えればよい。

 こうして感傷は解決するだろう。しかし、関係が一時的であるという性質に、何か重要な香りが染みついているのを感じざるを得ない。しかしそれは、感傷という感情を伴うものではない。むしろ驚きに近い。それはこうだ。なぜ、あなたとぼくの関係などというものがありえたのか。なぜそんな不可能なことが? あるいはこうかもしれない。なぜ、あなたとぼくの関係だけではないのか。なぜ、それだけで世界が満たされていないのか? 何人かの哲学者が霊感を得ているのはおそらくこうした問いであり、解答が得られるかはともかく、この問いを問いたくなる心性が少し僕には分かる気がする。

 

(連作「悪友」には、転生というモチーフが見られる。同じくこのモチーフを含む「手紙魔まみ」と、「悪友」を比較するのは、それなりに面白いのではないかと思う。)