いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

ことばは人を孤独にする(いくつかのテキストによせて)

 周りの人たちを見ていると、ことばが巧みな人は、「孤独」と言ってもいいかもしれないものを抱えているように見えることが、多い気がする。と言っても、観測した例は三人くらいだし、「ことばが巧みな人」ってどういう基準があるんだと言われたら答えられないし、その人たち自らが「わたしは孤独だ」と言っているのを見聞きしたわけでもない。特に最後の点について、寂しそう、と僕が思ってしまっただけで、彼女ら・彼らにしてみれば、勝手に人の心の内を推察するな、という話だろう。

 ことばは人を孤独にする。と言うと因果関係があるかのようだが、言語運用能力の高さが孤独を招き寄せるのか、孤独がことばの力を伸ばすのか、よく分からない。どっちもあり得るだろうと思う。いくつかの仮説を検討してみよう。

 1) 言語運用能力が高い人は、人とのコミュニケーションに失敗しやすい。真っ先に僕に浮かんだのはこの仮説だ。ふつう逆なのではないか、ことばが巧みなら、人と話すときもすらすらことばが出て、会話は円滑に進むのではないか、というのは、もっともらしいがそんなことはないと思う。会話でふと相手がもらした一単語を聞き分け、そのニュアンスを解析し、それが示唆する含意を汲みつくす。言語に対する理解の高い人は、こういうことをする。そして、ことばの、自らが析出した意味に、落ち込み、反論し、時にはもう二度とこの相手とは話すまい、と決める。

 言語運用能力が高い人がしばしば「見落とす」のは、ふつう人間はそんなに考えてことばを使っていないという事実だ。人は自分の感じたことをすばやくことばにするのに集中するあまり、ことばの正確な意味や、使われるべき文脈のことを考慮することができない。だから、自分のことばが十全に意味を伝えたとき、相手にどんな効果を与え得るか、正確に見積もることができない。もし話者の意図が何らかの仕方でことばの意味に関係するとしたら、そもそもこうした人々は、言語運用能力の高い人が受け取るような細部の「意味」を、意味していないということもあり得る。しかしことばの分析が上手い人は、相手が意図しなかった「意味」まで汲み取ってしまう。こうしてコミュニケーションは失敗する。

 先ほど「見落とす」と言ったが、この表現は現実に即していないと思う(僕自身、正確にことばを使えていないわけだ)。実はことばが巧みな人は、相手がことばを使うに際してあまりよく考えていないことをわきまえていることが多いのだと思う。しかしそれでもなお、ことばの意味の深いところを汲み取ってしまう。この点についての事情は、人によって様々だと思う。人はしばしば大げさに話すが、それを(ことばに忠実であろうとするあまり)そのまま受け取ってしまうのか。相手のことばへの無関心に我慢がならず、自分と同じくらい考えてことばを使うのが妥当だと考えているのか。ともかく、頭では、人はそれほどコミュニケーションに頭脳を用いていないと分かりつつも、それを実践に生かすのはたぶん難しいことだ。

 2) 孤独を解消するために、ことばの運用を覚えていった。これの一番分かりやすい例は、要は、人と上手に話せないので、上手に話せるようにことばの筋肉を鍛えていった、などの例だ。ただ、本当にことばが巧みになることで上手に話せるようになるなら、今孤独を抱えることにはなっていないはずなので、この例に説得力はない。むしろあり得るのは、孤独を、活字を読むことで癒していた結果、いろいろなことばを覚えてしまった、という例だ。その結果、言語運用能力が高まり、仮説1)が適用されるような状態になり、ますます孤独になり、さらに活字を求める。かなりあり得そうな話だと思ってしまう。

 3) ことばは人を孤独にするわけではない。人間はだいたい孤独なのだが、ことばが巧みだとその孤独を上手に表現できるため、彼女・彼が際立って孤独だとわれわれは思い込みやすいだけだ。これもあり得ると思う。だが、「孤独が上手に表現されると、それを認知した他人が孤独を癒してくれることもある」と仮定すると、ことばが巧みな人ほど孤独から脱しやすいことになり、寂しさを表現することもなくなるはずだ。だとしたら、孤独の表現と孤独を結び付けるこの説は、どこか傷があるか、あるいは補助仮説が間違っているかだろう。

 以上、勝手に人の感情を推察した。こうした議論は、当事者の自己理解に貢献するかもしれない(しないかもしれない)。僕としては、孤独な人よ、強く生きてくれ! と思うだけだ。僕がなんでこんな話をし始めたかと言うと、このブログ(レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』愛の自家中毒 - 人間の話ばかりする (hatenablog.com))を読んで、テキストを介した交流ってあるよな、と思ったからだ(参照ブログのすばらしさに対して、僕の考察のお粗末さよ!)。生身の人間というのは面倒くさい。死んだら腐る。しかし、人間を直接相手にするのではなく、人間の書いたテキストを対象にするとき、透明な板を間に挟んで相手と向かい合うような、そういう安心感がある。テキストは腐らない。

 よく哲学者が、他人と自分の間に膜があるような感じがして嫌だ、それが自分が哲学を始めた理由だ、みたいなことを言う(確か、N先生がそういうことをおっしゃっていた)。僕は時々分からなくなる。直接的であること、真摯であること、生きていること、などは、確かにすばらしい、きっと(これらの属性を並置することが、そもそも正しいのか、僕にはよく分からない)。ただ、他人と隔たっていないのは、僕にはちょっと気持ち悪い。それに、テキストを介した交流こそ直接的な交流だ、という考えも存在する。ことばがまずあって、ことばの間に人間がいるに過ぎないと考えるならば。この考えも、人間のちっぽけさを感じさせてくれて、僕は気に入っている。テキストという美しい透明な結晶があって、人間はその間を流れる液体にすぎない、ならば、どうだろう。この場合孤独かどうかはどうでもよくなる。

 この考え方をとらないとして、隔たっていて孤独だとしても、それはそうあるべきだという気がする。

 (あと、ことばに限らず、何かに卓越した人の孤独、みたいな話にも興味があるのだが、それはまたいつか。)