いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

転向礼賛:松村栄子「僕はかぐや姫」感想

「なのにそうした信念が、たった一筋の陽光の前にへなへなとくずおれてしまうことにふがいなさを感じて絶望したり、幾度か卑劣な転向を考えてみたりした」(p. 18)

 

 松村栄子「僕はかぐや姫」(『僕はかぐや姫/至高聖所』、ポプラ社、2019年)を読んだ。この小説について、批評したり議論したりしたいところはたくさんあるけれど、今は一つだけテーマを取り上げて感想を述べさせていただきたい。「転向」についてだ。

 以下の文章では、「僕はかぐや姫」の結末部分に触れる。結末を知りたくない方がいらしたら、この先には進まないことをおすすめする。

 

 

 

 この小説の主人公である千田裕生は、自分のことを「僕」と呼ぶ。「僕はかぐや姫」は、彼女が転向して自分を「わたし」(「あたし」ではない)と呼ぶに至る二日間を描いている。

 魂を封じ込めておく容れ物がある。魂が液体のようなものだとしたら、液体がそこを満たし、自らの形状を決めるようなものが、ここで言う「容れ物」なのだろう。裕生がほしかったのは、透明な硝子のような容れ物だ。その容れ物に容れられた魂は泣いたり笑ったりしない。性以前の透明性を保っている。「僕」という人称は、この容れ物を守るための防波堤だ――、これが裕生の認識だった。

 「わたし」とつぶやいた後、裕生は、「僕」は防波堤などではなく、彼女の存在の一部だったのだと気づく。彼女は「僕」を失うまいとするが、もう遅い。裕生は、自分が愛してきたものの正体を知り、その美しさに満足しつつ、これからも時々「僕」が自分を訪ねてきてほしい、と思う。

 

 自分の主義主張を、現実が変わっても固執して保持し続けようとすることは、生存の観点からは愚かなことだろう。生きていくには、現実に合わせて思想を変えていかなければならない。思想は、生存のための道具としての側面も持つから。この観点からは、転向は推奨される。

 しかし、自分の思想に固執することが(それは愚かなことだということが認められつつも)ある種の美しさを感じさせることがあるかもしれない。これは、思想が、それを奉じる人のアイデンティティを成すことがあり、自分のアイデンティティのために生存を犠牲にすることに、僕たちが倒錯したあこがれを持つことがあるためだろう。これは、美的観点から転向を否定する考え方だ。

 

 美的観点というのは僕はよく分からんので、このへんにしておく。しかし、思想が人のアイデンティティを成すことがあるということは、美的観点以前の問題を生じさせる。それは、自分のアイデンティティを成す思想を捨て、別の主義主張へと転向することが、その人の自分らしさを毀損してしまう、この毀損の苦しさの問題だ。

 (思想は生存のための道具だから、現実の変化に合わせてどんどん思想をアップデートすべきだ、と考えるとしたら、思想の更新のコストの問題を考えねばならない。新しい思想を学ぶには、たくさん勉強しなければならないが、これは正直言って面倒だ。さらにアイデンティティの問題もあるとしたら、なおさら思想の更新はコストが高くなる。だから、更新回数が最小になるようにする、という制約を付けて、人間のことを考えてやる必要があるかもしれない。)

 

 裕生の話に戻ろう。つまらない定式化になってしまうけれど、裕生の転向に立ちはだかったのは、美的観点からの思考と、アイデンティティの観点からの思考だと言える。しかも、裕生の場合にさらに状況を悪化させているのは、「僕」で居続けることの原理的な困難だ。この世で、性以前の透明性を確保しつつ魂を生かしてやるのは、相当困難なことだと思われる。

 しかし、裕生はここで、ほとんど奇跡的な(と僕は思う)活路を見出す。その活路は、たぶん偶然見つけられた。裕生は「僕」を失って初めて、「僕」がどれだけ美しかったかを知る。そして、これからもたびたび「僕」が自分を訪れてくれることを願う。ここで裕生は、「僕」を失うことによって、やっと「僕」を手に入れたのだ、と僕は思う。

 身体に宝石が埋め込まれる、ということがあるかもしれない。宝石は自分の身体の一部であり、自分で自分のことを愛せない人は、宝石を誇りつつ、それを疎ましく思う。しかも、加齢によって身体がだめになったら、宝石もだめになってしまう。裕生に偶然起きたことは、宝石を身体から失うということ、その代わり、いつでも取り出せるようにしまっておくことができるようになったこと、だ。「僕」が自分であるうちは、決して「僕」を十分に愛することができなかった。しかも、「僕」は裕生と一緒にいたら、きゅうくつで死んでしまうだろう。しかし、「僕」が自分を離れることによって、ようやく、裕生は「僕」と和解した。これからは十分に慈しむことができるだろう。

 

 人はおそらく、様々な自己を持つことができる。裕生は、「わたし」を主軸にしつつ、「僕」を殺してしまわない道を見つけた。これははっきり言って、純粋さを放棄したということだろう。人は、自分の主義主張を持つとともに、自分の主義主張についての主義主張、いわばメタ思想をも持つ。この場合、裕生は、「自分は一つだけ思想を持つべきであり、他の思想も持つことは許されない」というメタ思想から、「自分は、「僕」の要素も持ちつつ、「わたし」であってもいい」というメタ思想へと、転向したというわけだ。

 純粋に「僕」としてあり続けることの絶望的な難しさを考えるならば、裕生がメタ転向したことに、僕はほっとせざるを得ない。もし、このように述べる僕が、とても不純な存在でなければならないことに、我慢できるとしたら。

 

 

杉並区周辺のスケッチ(1)

 「マスクを捨てて町へ出よう」、本当に? 僕は懐疑する。というのも、僕は町を知らないから。(知らないまま)町に出ると、人々はしっぽを持っている。それで首を絞めるのである。なるほど、首を絞められれば息をせずに済み、息をせずに済めばマスクをする必要がない。素晴らしい発明だ! 人類最古の知恵と言ったところだろう。

 

見ろ、男がかぼちゃを買ったぞ!

 

僕もしっぽがほしい。しっぽはAmazonで買えますか。Amazonで買うには金が要る、ときみが言う。金を手に入れるためには働かねばね。どうやって働けばいいんですか。簡単さ、息をしなければいい。

 

※以上の出来事は、僕がセブンイレブンにコーヒーを飲みに行く途中で起きた、正真正銘の出来事です。

覚え書き:『ケミストリー』(ウェイク・ワン著、小竹由美子訳)

 『ケミストリー』(ウェイク・ワン著、小竹由美子訳)を読んだ感想を、以下に書かせていただく。だいぶ前に読んだので、忘れてしまった箇所も多いが、とりわけ印象に残ったことを、二、三点記しておく。

 

 まずはつまらない指摘から。本の帯で、「血のにじむ努力で移民した両親の期待に応えられない自分を持てあます、リケジョのこじれた思いが行きつく先は――。」というふうに本の内容が紹介されているけれど、主人公に「リケジョ」というラベルを貼ってすましているのはいただけないなあ、と思う。確かに、主人公は化学専攻の博士課程の学生だし、主人公の語りの中には科学の豆知識が散りばめられ、そのいくつかは重要なモチーフになっている。しかし、「リケジョ」という言葉そのもののよさ/悪さについては措くとしても、このラベルが主人公を十分に規定できている気はしない。「リケジョ」というラベルからは軽々とはみ出してしまうほどに、主人公の性格は具体的で、個別的だからだ。

 

 次に、文体について。本文は、主人公の独白からなっている。一パラグラフがかなり短く、内容もパンパン切り替わるので、読者はさくさくと読み進めることができる。いわば、短い断片が連なってできている感じ。しかし、そのような軽さのわりに、不思議と読書の充実感がある。昔読んだ、シルヴィア・プラスの詩(の日本語訳)に近いかもしれない。このような文体は、主人公の頭の回転の速さ(感覚や思考が世界を捉え、先に進んでいくときのスピードの速さ)を示していると思われる。日本語でこのような文体を形成したことについては、訳者の工夫がしのばれる。

 

 さて、内容の話。一番印象に残ったのは、主人公の母親のことだ。主人公の母親は、上海で不自由のない子供時代を送り、記憶力を生かして薬剤師になる。そして、大学で学ぶために田舎から出てきた主人公の父親と結婚し、主人公を出産する。ところが、主人公の父親がアメリカに留学したいと言い出す。主人公の母親は、夫と子供とともにアメリカに渡ることを決意し、金銭面でも夫を支える。アメリカに渡った主人公の父親は、驚異的なスピードで博士号を取得し、エンジニアとして成功する。

 ところが、主人公の母親は英語ができず、アメリカ社会に溶け込めない。アメリカでの薬剤師の免許も取れない。夫婦喧嘩は絶えず、主人公にもつらくあたってしまう。中国に電話をかけて、家族や友人と話すのが日課になる。

 主人公の父親は、自分の能力を開花させ、さまざまなものを手に入れた。しかし、主人公の母親の方は、自分の力を発揮する機会を奪われ、いわば、彼女「自身」のために生きることを中断せざるをえなくなった。夫のために、自分の人生を部分的に犠牲にしたと言っていいと思う。

 それなのに、主人公の母親は、夫と生きることをやめようとしない(もちろん、夫婦喧嘩のときは大いに夫を攻撃するのだが)。どうやら、その人のせいで自分の人生の道を曲げざるをえなかったというような、そのような関係にある人とさえ、不思議と人は一緒に生きていけるようなのだ。この関係を日本語で一言で言うなら、「縁」みたいなものだろう。この「縁」は、よいとか、悪いとかいったような評価を受け付けず、ただ関係として存在するだけだ。人生の道をゆがめるというような、われわれが不幸だろうと思う関係でさえ、この関係が結び付けた人々を導くことがありうる。そしてその人たちにとって、関係が「よい」ものであるとか、「悪い」ものであるとかいったことは、どうでもよいことでありうる。

 主人公の母親と父親の間にある種類の関係は、二人の間だけにあるものではない。主人公も、幼いときに母親からつらくあたられて、いまだにそれがトラウマとして残っているのに、なぜか母親のことを嫌いにならない。ここでは、受けた傷の痛みはまだ忘れられていないのに、その傷があるということが人を結び付けているようだ。

 正直に言うと、なぜ主人公の母親が、主人公の父親を憎み、怒り、家族を捨ててどこかに行ってしまわないのか、僕にはよく分からない。以上に述べた「縁」の話は、僕がそんなものがありうるかもしれないと想像したものに過ぎない。だが、『ケミストリー』は、この謎めいた関係の秘密を、読者に提示しているように思われる。久しぶりに読んだ小説が、このようなものでよかった。