いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

パーティーを開く理由:ウルフ『ダロウェイ夫人』

「誰それがサウス・ケンジントンにいる。べつの誰かがベイズウォーターにいる。またべつの誰かがたとえばメイフェアにいる。わたしはたえずその人たちの存在を意識しつづけている。そしてなんてむだなことか、なんて残念なことかと感じる。その人たちを一緒に集められたらどんなに素晴らしいだろう。だからわたしは実行に移すのだ。それは捧げ物なのだ。人びとをむすびあわせ、そこからなにかをつくり出すってことは。でも、誰にたいする捧げ物なのだろう?」(ウルフ, V.『ダロウェイ夫人』(丹治愛訳)、集英社、2007年、p.218)。

 ダロウェイ夫人は、自分の天賦の才能として、この捧げ物を捧げることを、つまりパーティーを開くことを挙げる。彼女が追求する「人生」というものでは、人びとはさまざまな場所に散らばっており、しばしば互いのことを知らずに暮らしている(もっとも、ダロウェイ夫人は、パーティーの主催者は、各々の人びとにずっと注意を払っているのだけど)。人生というものは、多かれ少なかれそのような特徴をもつ、出会うべき人に出会いそこねていて、出会いそこねていること自体も知らない、という特徴を。

 存在というものにとって、距離はどのくらい本質的なのだろう。人生が、重要人物たちがまばらに散らばっている散漫な構造をしているなら、各々は互いに対して距離を抱え、そして距離を抱えていること自体にも気づかないなら、そして人生というものが、実存という名前を通していくらか存在に関わっているなら、存在は確かに距離という変数をもつのだろう。パーティーを開くのは、この距離への反抗というか、逆襲だと言える。パーティーの主催者は、距離のせいで人生がつまらなくなっているのを知っているから、人びとを一か所に集めることで人生に彩りを添えようとする。こんなに素晴らしい人たちのことを、どうして知らないままでいていいだろう? 広大な宇宙のなか、本来なら孤独に一生を終えていたはずの人びとが、パーティーによって出会う。

 孤独な生は、死んでいる生と一緒かもしれない。ならば、パーティーを開くのは、生きるためだ。パーティーを開いているあいだ、ぼくたちは死を忘れる。

 

「なんと異様で、奇妙で、けれど感動的な光景なのかしら。ほんとうに長いあいだお隣同士だったあのおばあさんが、まるでこの鐘の音、この音の連鎖とつながっているかのように窓から奥へ退いてゆく光景は」(同、p. 227)。

「実際、まさにこれこそが至高の神秘なのだ――こちらにひとつの部屋があり、向こうにもうひとつの部屋がある、ということが」(同、p. 228)。

 窓の外に、老婦人が向かいの家の部屋のなかで動いているのをダロウェイ夫人は見る。そしてこんなことを考えている。確かにダロウェイ夫人は老婦人のことを意識しているけれど、老婦人はダロウェイ夫人に気づいていない。そしてダロウェイ夫人はただ眺めている、老婦人になんの干渉もせずに。老婦人は誰にも邪魔されず、自動人形のように鐘の音に合わせて動く。

 確かに、距離を詰めるというのは人生を楽しくするひとつのやり方だろう。人に影響し、影響され生きるのは、疲れるけれど楽しいだろう。しかし、距離をとったまま、眺めるという人生が、お互いに相手のことを知らんぷりして静かに宇宙の調和に満たされながら生きるという人生が、ある。

 人生がひとつの失敗のように思えるときがある。いや、あるのだろう。ぼくがもっと年をとったら、きっとそう思うだろう。ぼくはパーティーに呼ばれなかったし、呼ばなかったのだ。しかし宇宙に響く音楽に身体を浸して生きることは、成功のない人生を生きることは、ひとつの美しさをもっている。そして心安らかに存在を閉じるのだろう。その心安らかさは、不思議と捧げ物を捧げる気持ちに似ているのかもしれない。