いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

妖怪が出会う 河野裕子一首評

逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと (河野裕子

 

 

実家に送ってしまって手元に河野の歌集がないので、テキストは

河野裕子 / 永田 淳【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

から孫引きをした。

 

この歌と初めて出会ったのは、高校生のとき、国語の便覧を眺めていてのことだった。読んだとき、これは妖怪の視点に立って詠まれた歌だろう、と思った。河野が有名な歌人で、この歌も有名で、といったことを当時は知らなかった。たぶんこの歌には歌人の人生に関わる背景があり、それに基づいた歌の解釈もなされてきて、それらの解釈には妖怪など少しも登場しないかもしれない。以下では、当時のぼくが直感的に読み取った、おそらくエキセントリックと言ってよい読みを紹介したい。

 

唾を眉につけたり、脇から覗いてみたりすると化け物の正体を見ることができる、というような話がある。おそらくこの妖怪も、逆立ちをすると見ることができるタイプの化け物なのだと思われる。妖怪はすっかり油断していて(どうせ誰にもおれのことは見えないのだ)、人間たちのあいだをうろついて暮らしていた。夏、子供たちが遊びまわっているなか、ひとりだけ仲間の輪から離れた子が、じっとこっちを見ている。しまった、こいつにおれは見えている! 逆立ちをしているじゃないか! しかしその子は何も言わず、じっとこちらを見ている。眺めている。まるでおれがいるのがふつうであるかのように。(変な子だ!)

 

それはたった一度きりのことだった。その子のことは、その後は見なかった。どこかへ行ってしまったのか、それともやはりおれが怖く、もうあんなもの見たくないと思ったのか。それとももう、ほかの人間たちのように、逆立ちするのをやめてしまったのか。妖怪は夏が来るたびに思い出す。なにしろ、妖怪を見たものは、見て怖れなかったものは、これまでいなかったのだ。妖怪の永い一生のなかで、あの夏が、奇妙な一点を形成する。これまで人間と関わりなく過ごしてきたなかで、あの一点は、確かに奇妙で貴重だった。

 

この読みでは、河野の歌は妖怪の孤独と、そのなかに一瞬灯った明るい記憶を映したものになる。すばらしい歌だとぼくは思う。妖怪は、人間よりずっと長いその一生で、人間たちがいなくなってからも、このことを思い出すだろう。