いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

竜を助けに行く旅:川野芽生「白昼夢通信」

 例えば、映画「ホビット」では、竜を退治するためにドワーフたち、魔法使い、ホビットが仲間になって旅に出る。しかし竜はと言えば、洞窟のような都市の中でひとり眠っている。仲間がいないみたいなのだ。竜はあんなに大きいから、仲間といっしょにいたいと思うと、とても広い場所が必要なのかもしれない。悪役とはいえ、少しかわいそうな気もする。

 竜を殺すための旅があるなら、竜を助けに行くための旅もあるかもしれない。ちょっと違うが、「魔法少女マリリン」シリーズの第一巻『青い石の伝説』には、洞窟に眠る老いた竜を起こしに行く話があった。しかしあの竜もたしか、共に戦った人間の英雄は死に、ひとりぼっちだった。

 

 以下に、川野芽生「白昼夢通信」(水見稜ほか『白昼夢通信』、東京創元社、2019年、所収)の感想を書きたいと思う。このお話には、竜と、竜を助けるために旅に出る人が出てくる。筋が分かっていても楽しめる小説だとは思うが、結末などに触れるので、未読の方で気にする方は注意していただきたい。

 以下でする話が、謎解きのように思われなければいいが、と思う。第一に、以下で述べる感想は作品の前では浅はかさを露呈するだけだ。第二に、謎は僕たちの前に立ちはだかるときにだけ解かれなければならないのだ。「白昼夢通信」の謎は、水のように、読者の中を軽やかに流れる。

 

〇魂の対

 「白昼夢通信」の中には、一つの魂を分け持っているような、対をつくる人物が登場する。

 いつも雪が降っている白い街に住む、人形つくりの花嵐と、淡い色の花がただ一種類年中咲いている街に住む、人形解きの雪柳は、そうした例の一つだ(ちょっと脇道にそれるが、後者の住む街を描写した段落(p. 127上段)は、印象的だ)。死んだ花嵐の魂を解いた後、その魂と海に出かけたきり、雪柳も消えてしまう。二人は対照的な職業を持つほかに、相手が住む街を象徴する言葉を自分の名前としている。

 竜の末裔である瑠璃さんの祖母は、夢の中で、竜の自分が眠っているのを、人間の自分が見ていたという。竜は世界を夢見、その夢が私たちの住んでいる世界だ(夢である僕たちは、自分たちは目覚めていると思っているようだけど。まあ、ここには矛盾はない)。夢の中でやがて、人間たちは竜を殺す。そして竜は目を覚ます(p. 123)。ここでは、竜の自分が夢を見て、その夢の中に人間の自分がいて、夢の中の夢で現実の自分と夢の自分が出会っている、というふうになっている。竜の自分と人間の自分とが、夢を見ている自分と目が覚めている自分とが、対になっている。

 瑠璃さんは、プールで泳いでいた時、底の方からもう一人の自分が、泳いでいる自分を見上げているように思ったことがある(p. 131下段-p. 132上段)。あるとき、プールからの帰りのバスで、瑠璃さんは湖を渡る。その際に、バスに乗るときは一緒だった、水を怖がっていた子供を、湖の向こうに置いてきたという(p. 132上段)。その子供は、目覚めているほうの瑠璃さんだった(p. 140上段)。

 向こうにもう一人の自分を置いてきたのは、瑠璃さんだけではない。のばらさんも、魂を半分、海の向こうに置いてきたという(p. 127下段、p. 143上段)。離れ離れになった魂は対をなす。そして、自分の魂が分かれて対になっているということが、瑠璃さんとのばらさんを対にする。

 遺された、人形のほうののばらさんは、香水の雨が降ると夢を見る。あるとき、夢でのばらさんは、「高い塔の並ぶ半透明の都市」(p. 141上段)から来た女の人に会う。作品は、主にのばらさんと瑠璃さんの間の書簡で構成されるが、別の種類の手紙も混じっている。そうした手紙の一つは、大学生と思われる澪さんが、実家のぬいぐるみであるくるみさんに宛てて書いたものだ。それは、魂を持つ人間と、魂を持たないぬいぐるみの間の通信だと言える(いや、くるみさんは魂を持っているのかもしれないが)。魂を持たない者は、夢を見ないという(p. 133上段)。魂のかけらしか持たないであろう人形ののばらさんも、雨が降るときは夢を見て、魂を持つものと通信ができる。夢は、異なるものが出会うことのできる空間なのだ。

 ひとつ指摘できることがあるとすれば、離れた魂は、この作品において偶に会うことがあったとしても、決して合一を望もうとはしないことだ。哲学には、自分を離れて他者に向かい、結局自分に回帰する、というモチーフがしばしば現れる。しかし、このような予定調和は「白昼夢通信」にはないように見える。魂は、お互いの自律性を敬いながら、離れて、しかし通信はとって、暮らしている。

 

〇夢の流れと竜殺し

 雨が降るとき、人形ののばらさんは人と会うのだった。水は、ものとものの間を隔てているとも言えるし、媒介しているとも言える。もし、この媒介が阻害されたなら、閉じた世界の中で、水は循環をやめ、あたりは湿っぽくなってしまうだろう。

 作中に収められた瑠璃さんからの手紙はすべて、夢を見ているほうの瑠璃さんからのものだ(だが、どうやらのばらさんが普段受け取っているのは、目が覚めているほう、湖の向こうに置いていかれた、人間のほうの瑠璃さんからの手紙らしい)。夢を見ている瑠璃さんは、いつも雨が降っている街に住んでいる。そこでは、文字も人も滲み、電車に乗っても街の外へ出ることができない。

 のばらさんは、目が覚めているほうの瑠璃さんへの手紙で、のばらさんが鬼から逃げていた時、瑠璃さんが助けてくれて、運河から海へ逃げた思い出を書いている。運河は、竜の一族が管理していたものだった。のばらさんは書いている、「いまでも鬼は怖いけれど、瑠璃さんが船で海へと連れ出してくれたあの日以来、わたしはどこへでも行けて、逃げることもできるんだ、と思えるようになりました。〔中略〕あなたが逃げるための翼を持っていることが、わたしにはうれしいの」(p. 134下段-p. 135上段)。

 しかし、運河のある街は、整備されてしまったという(p. 135上段)。想像の域を出ないけれど、たぶん運河も埋められてしまったのではないか、と僕は思う。そしてそのことが、水を自由に行き来する竜の生命を脅かしていたとしても、全く不思議ではない。翼を持つはずの瑠璃さんなのに、雨が降る街から出ることができない。世界は閉ざされ、あふれた水は行き場を失ってしまった。この想像が正しいなら、ここには人間による竜殺しというモチーフが、見てとれるように思う。

 雨の街から届く、滲んだ手紙を見て、のばらさんは海の向こうの世界へ旅に出る決意をする。竜を救うために。

 

〇白昼夢の中で

 目が覚めているときのこの世界と、夢を見ているときのこの世界があり、水は両者を隔てつつ、つないでいる。片方の世界に閉じ込められてしまった瑠璃さんを、のばらさんは助けに行く。のばらさんが人形解きの仕事をしている不思議な街が、どちらの世界にあるのか僕には分からない。しかしたぶん、のばらさんは、そしてたぶん瑠璃さんも、両方の世界を行き来しているように思われるし、本来なら読者の僕たちもいろいろな世界と通信をとることができるはずなのだ。

 僕は「白昼夢」というのは、昼寝したときの夢のことかと思っていた。しかしそれは昼寝ばかりしている僕の誤解で、辞書を引くと、日中に目を覚ましたまま空想を見ることだ、とある。つまり、現実でも、夢でもない世界のことだ。

 作品を構成しているのばらさんと瑠璃さんの手紙は、のばらさんが目を覚ましている瑠璃さんに送る手紙と、夢を見ている瑠璃さんがのばらさんへ送る手紙だと僕は見ている。つまり実は、読者はかみ合っていないやりとりを見ていることになる。夢を見ている瑠璃さんのもとへ急ぐのばらさんは、夢の中まで入っていけるだろうか。ふたりがもし会えるとしたら、それは、夢でも現実でもない世界、世界と世界の境界地、つまり白昼夢の中ではないか。

 あるいはこう考えることもできる。作品を構成するのばらさんから瑠璃さんへの手紙と、瑠璃さんからのばらさんへの手紙は、それぞれ別の世界でやりとりされている。本来交わるところのなかった手紙が一緒に収められている、このテクストこそが、白昼夢なのだと。

 川野さんのこの作品の隠れたテーマは、お互いに異なる、特異な性質を持つ少数者どうしの連帯が、いかにしてありうるのか、ということだと僕には思われる(あるいは、本作とは別の川野さんの活動を知っているから、こんなことを思うのかもしれない)。のばらさんが、瑠璃さんのもとへたどり着けるのか、定かではない。たどり着けたとしても、結局助けることも、助けられることもできないのかもしれない。しかし、各々の夢の中に住んでいる者たちが、行きあうことができる場所があるとすれば、それはたぶん、白昼夢のなかにしかないのだ。この作品の作者には、今後も白昼夢を紡ぎ続けてほしいと切に願う。

 

 ちなみに、この作品の冒頭の文章は、僕にはとても怖ろしく思われた。ここで引用することは避けるが(ぜひ本を手に取ってほしい)、のばらさんが、瑠璃さんに手紙を書くことにしたきっかけを述べるくだりである。例えば僕は、いずれ捨てなければならない時が来ると思うがゆえに、人形を迎えることができない人の気持ちに共感してしまう。のばらさんは、そうではないようだ。しかし夢と現実を行き来できる人というのは、こうでなければならないのかもしれない。