いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

前触れだけの夏:笹原玉子『偶然、この官能的な』から

 私事で申し訳ないが、今日、お中元が届いて、箱の中には袋に包まれて四角いドライアイスが入っていた。家には水をためる大きな容れ物がないので、アルミボウルに水を張って、そこに浮かべてみる。煙が勢いよく出るが、ちょっとすると出なくなってしまう。観察してみると、ドライアイスとは違うらしい氷ができている。どうやら、ドライアイスに冷やされて水が氷になり、膜をつくって、水とドライアイスを隔てているらしい。そんなことあるんかい、と書いていて不安なのだが、時々台所のドライアイスに目をやって、煙が出ていないなら水をかける、ということをして、今日の午後を過ごした。

 氷が解けていくのを眺めること。氷水に手をつっこむこと。ドライアイスから盛大に煙を出すこと。どれも素敵なことであるから、こうしたことを提供してくれる氷屋さんは、すばらしく夢のある仕事だ。こんなことを考えていて、笹原玉子さんの次の歌を思い出した。

 

氷売りが扇売りとすれちがふ橋たつたそれだけの推理小説

(笹原玉子『偶然、この官能的な』、書肆侃侃房、2020年。)

 

 作品には、それへの批評が作品をさらに豊かにするものと、そうしないものとがあるように思う。後者のような作品には、例えば、作品を受け取った瞬間に読者が鮮烈なイメージや直感を持つことのみを作者が狙っており、それ以上のもの(解釈など)を必要としない作品などがある。そうした作品は、ただ賞賛すればよいだけで、批評しようとするとつまらない文章ができてしまったりする。

 一見、上に挙げた笹原さんの一首も、そのような作品に思われるし、それはあながち間違いとも言えない気がする。『偶然、この官能的な』の冒頭に置かれたこの作品に出会って、読者はただ、顔に向かって詩の風が吹き込んでくるのを感じられればよい。はじめは僕はそんなことを思っていたが、少し考えるとそうとも言い切れない気がしてきた。簡単にではあるが、この作品の批評らしきものを以下に書く。

 「こおりうり」と「おうぎうり」は、母音を見ると前者はooiui、後者はouiuiで、ほとんど同じだ。また、一句目「氷売りが」と二句目「扇売りと」はともに6音で、これらのことが、氷売りと扇売り、橋の一方からやってきた者と、他方からやってきた者が対になっていることを示しているし、リズムの上でも対称性を読者に感じさせる。また、一句目6音は、長い間を持続させることで氷売りの登場を読者に印象付け、読者が氷売りを脳内に思い浮かべるまで待たせる効果があるかもしれない。

 さて、氷売りと扇売りの二人がすれ違った橋は、どんな都市にあって、その都市はどんな場所にあるのだろう。僕は勝手に、歴史上の中国っぽい、華やかな商業都市を思い浮かべていた。氷も扇も、生活に絶対必要なものではないと思うし、仮にそれらを必要とする人がいたとしても、氷の品質や扇のデザインにこだわって店で選ぼうとする人は、田舎にはあまりいない気がする。

 では、いつすれ違ったのだろう。これも僕は、勝手に、夏にすれ違ったのだと考えている。扇が必要になるのは暑くなる夏のことだし、氷が何に必要になるのかはいろいろある気がするが、需要があるのはたぶん夏だろう。氷売りも扇売りも、夏の間だけその仕事をして、他の季節は別の仕事をしているのかもしれない。こうした妄想が正しいとしたら、氷売りも扇売りも、夏の象徴として現れているのだと考えられる。

 夏の都市で、橋の上で、二人の商売人がすれ違う。たったこれだけの内容の推理小説がある、というのが下の句の言っていることだ。四句目「橋たつたそれだけの」(当然「すれちがふ」は「橋」を修飾しているが、僕は意味上のつながりではなく、なるべく57577のリズムで区切りたい)は10音で、これでもかとばかりに読者に「それだけ」性を印象付けている。二人の人がすれ違うことに、一見何の謎もないし、小説の内容がそれだけなら、当然名探偵も謎の解決もない。それなのに、この小説のどこが推理小説なのか。なぜ、SFでもファンタジーでもなく、推理小説なのか。

 二人の人間がすれ違うことに、何の謎もない、と僕は言った。確かにここに謎はないかもしれないが、しかし、謎の予感はある。それはちょうど、氷売りや扇売りが夏を予感させているのと同じだ。橋ですれ違った後、都市では謎の連続殺人事件が起き、二人もそれに巻き込まれるかもしれない。そして後になって、人は、あのとき氷売りと扇売りがすれ違ったことが、その後に起きることを暗示していたことに気づくのだ。

 謎の暗示は、ものすごくさりげない。氷売りと扇売りは、話をするわけでなく、たぶん「会った」とすら言えない。すれ違うだけだ。すれ違うというのは、複数の人間の間で成立するうちで、最も弱い関係かもしれない。解決篇がないし、ひょっとしたら謎の提示さえないかもしれないが、ほんの小さな、謎の前触れだけはある。この点において、氷売りと扇売りが橋の上ですれ違うだけだとしても、この物語は推理小説でありうる。

 謎の解決が、あるいは夏が、好きだと言う人はいる。しかしそれは勘違いかもしれず、本当に好きなのは、謎の前触れ、夏の前触れなのかもしれない。この文章のはじめで、僕は笹原さんのこの歌を、読んだ瞬間に鮮烈な印象を与える(だけの)歌とも読める、と書いた。そのようにも読めるのは、この歌が切り出してきた「前触れ」が、豊かなイメージ喚起力を持つからだろう。

 

 この文章を企画しているとき、三浦春馬さんの死を知った。彼の出てくる作品はほとんど見たことがないけれど、気になる俳優さんだったので、割とショックを受けている。彼が出てくる作品を見てみたいので、おすすめがある方は教えてください。