いくつかの折々の手紙

哲学などに関わる軽い読み物

正月特別企画:自己紹介

 これを書いている今、正月休みなのですが、暇を持て余してしまいました。何か書こうと思うのですが、よいネタがありません。そこで、自分のことについて語ろう、自己紹介をしよう、と思い立ちました。

 

〇僕の生まれ

 悪魔が地上を歩き回り、ふらついてきたように、僕はこの世にふらつきながらやってきた。夜が怖ろしい僕は、夜を避けようとして逆に夜にばかり生きていたような気がします。

 日本の北部にある、A県で僕は生まれました。ご存じの通り、A県は悪魔と鬼の国です(その証拠に、A県A市では、真夏になると鬼と鬼を退治する戦士とが地上を練り歩きます。悪魔はというと、面倒なのでビールを飲んでいます)。その地で僕は、二つのことを学びました。人間は愚かだということと、人間は愚かではないということです。この二つは矛盾していますね? 矛盾許容論理を採用していなかったので、僕はこの教えからすべてのものを得ました。しかしこのとき僕は知らなかったのです、何が導けるかということと同じくらい、何が導けないかということも大事なのだと。

 

〇僕の大学時代

 僕は大学に進学するために日本の首都Tにやってきました。Tにはたくさん優れたものがあると聞いていましたが、僕が実感できたのは、町中華のレベルが高いということと、本屋が大きくてなんでもあるということぐらいです。

 僕の友人の――友人だった――Mさんの話をさせてほしい。僕は哲学を勉強していたのですが、Mさんもそうだった。Mさんはすごく賢くて、すごく生きづらそうだった。なんと言うか、本当は彼は完全に均された土地からなる美しい国に住むべきなのに、この世がでこぼこしているせいで、彼は余計な苦労をしなければならないという感じだった。彼も僕同様に院試を受けて合格したのですが、自分は年をとっていて、新卒で採用してもらえるのは今だけだからと言って、就職しました。その年の夏に一回彼と会って、おそばを食べましたが、それ以来彼とは会っていない。連絡がつかない。彼はどこかに行ってしまった。

 そうこうしているうちに、僕も心身のバランスを崩しました。しかしこれは面倒なので割愛する。

 僕は哲学の勉強をしていた、と言いましたね。僕は、自分は夢を見ていないと示すにはどうすればよいか、ということを研究していました。変な研究ですね。こんな研究をしていたからでしょう、僕はだんだん夢と現実の区別がつかなくなりました。夢の中で、僕はベーブ・ルースと出会いました。しかし僕は英語が話せないので、だいぶ彼に迷惑をかけてしまいました。最終的には僕がスプーン曲げを披露したため、打ち解けることができました。わあ、こいつは魔法みたいだね、彼は言いました。まあね、僕は毎日哲学を勉強しているからね。僕はこの夢は論文に使えると思って、論文に書いたのですが、先生方の評価は厳しかった。アメリカ人とは話すな! って言ったんです。戦時中みたいですね。夢くらい自由に見せてくれていいのにね。

 

〇ついに就職する

 というわけで、僕はベーブ・ルース修士論文を書き上げ、都内のIT企業に就職しました。とは言っても、僕はぜんぜんコンピュータを使えなかったので、まずプログラミングの勉強をしました。なんか知らんけど、僕はこういうの好きだなと思いました(他人が書いたプログラムを読むのは、割とテクストの精読に近い気がします。書くのはまた別かもしれませんが)。

 ただ、僕は夢と現実の区別がつかない男ですから、いろいろな失敗もしました。特に、朝起きることができず、何回も遅刻しました。こんなに遅刻しても給料を払ってくれるのですから、おとなというのはめちゃくちゃ優しいです。ただ、優しさにも限界があったみたいで、おまえくびね、と言われてしまいました。まあ、こうなるとは分かっていたから、僕はぜんぜんショックは受けなかった。ただ、どうやってお金を稼ごうか、ということは悩んでいます。夢を見るのにも金が必要なときがあるから。

 というわけで、しばらくアルバイトをしながら、食っていくことにしました。

 

〇総論

 僕は時々、悪について考えます。弱さに興味がある人はけっこういるけれど、悪に興味を持ち、また悪を理解しようとする人は少ないように思います(僕が会ったことがないだけかもしれません)。悪は、表面的には糾弾すべきだが、裏で、こっそり生きていける道を用意しておくべきだ、というのが、今のところの僕の考えです。

 なんで僕は悪に興味を持っているのか。初めにも書きましたが、僕は自分の生に、何となくしるしがついているような気がする。たぶん、役に立たない羊を目立たせるためのしるしでしょう。このしるしへの認知が、僕に悪への興味を持たせるのだと思います。

 

 

二次創作:占い師と作家の話

 名を呼ばれ城門へ向きなほるとき馬なる下半身があらがふ  (川野芽生『Lilith』)

 

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 そうか、話してくれてありがとう。あなたの話を聞いていて、思い出したことがある。僕の叔父さんの話をしていいだろうか。

 僕の叔父さんは変わり者だった。首都の大学を卒業した後、この町に戻ってきて、しばらくは役所で働いていたが、急に辞めて、家に引きこもるようになった。その後も代書人としてお金を稼いでいたが、それは彼の生業ではなかった。彼の本当の職業は作家で、もっぱら過去の諸事実を書き留め、構成することに集中していた。彼の意識は、僕たちの先祖のことを含む、この辺り一帯の歴史に注がれていた。まるで自らに流れ込み、自らの目に映ったすべての細々としたことを、文字として定着しなければならないと確信しているのかのようだった。

 そんな叔父さんだったが、彼には恋人がいた。いや、「恋人」ということばが適切なのか、僕にはよくわからない。ふたりは偶に会っていた、ということしか僕は知らない。僕たちの家の暖炉の前で、ふたりが長いこと黙ったまま、一緒に座っていたのを、今でも覚えている。

 叔父さんの「恋人」は、町を越えて名声が響く凄腕の占い師で、彼は未来のことを何でも知っていると言われていた。当時、おんながおんなを愛したり、おとこがおとこを愛したりすることは、法律で禁じられていた。町中の人が、叔父さんと占い師のことをうわさしていた。しかし、ふたりは全く気にしていなかった。ある朝、川べりに叔父さんと占い師が並んで座っているのを町の若い衆が見つけ、彼らはある種の正義感と怖れから、ふたりにひどい暴行を加え、ふたりは死んだ。僕の家に運び込まれた、ふたりの遺体を包み込んだ包みから、変色した腕がだらんと垂れていたのを、僕は見た。あれは忘れられない。

 しかし、この事件を占い師は見通していたようだった。そして、あらかじめ手を打っておいたのだった。ふたりが死んでから七日目の朝、草原を疾走に伴う風が通り抜け、僕たちは来客のベルの音で目を覚ました。ドアを開けたところには、上半身が叔父さんで、下半身が馬のいきものがいた。ふたりが完全な体で戻ってくるのは難しかったのだろう、しかし占い師は自分は馬となり、叔父さんと一緒になることで、ふたり合わせてこの世に戻ってきたのだった。

 戻ってきたふたりは、生きていた時と同様、周りの目を全く気にしなかった。ふたりは僕と一緒に町に買い物に行ったりした。町の人々の怖れと好奇心はさぞ大きかっただろうが、ケンタウロスの持つ威厳が怖れから来る迫害を封じ、好奇心に駆られて僕たちの家をのぞきに来る人たちは、叔父さんと話し、その叡智に打たれて黙り込むのだった。何しろ、過去の探究者である叔父さんと、未来を見通す占い師が一体になっているのだ。人々はふたりの存在を受けいれ、中にはふたりに悩みを相談に来るものさえいた。笑ってしまうだろう。おとこ同士がいっしょにいることは受け入れないのに、半人半馬は受け入れるなんてね。

 ケンタウロスのうわさは首都にも伝わり、ついに王の耳にも入った。当時の王は珍しいものを大変好んでおり、異国から伝わる様々な宝を収集するのを趣味としていた。王がふたりを呼んで宴会を開くと言ってきたのも、全く不思議なことではなかった。僕はふたりに同行して首都に向かった。初めての首都、そして立派な城は、僕に鮮明な印象を与えた。そして、国中から珍しいものを集めて催された、城での宴会も。王はきさくだったが、その目には何か奇妙な炎が宿っていた。ケンタウロスは王といくらか会話し、王もその知恵に感銘を受けたようだった。王はさかんに酒を勧め、叔父さんはいつしか大変に酔っていた。

 宴会がお開きになり、客たちは帰り始めたが、ケンタウロスと僕は最後まで引き止められ、やっと解放されたころには、他の客たちは帰った真夜中だった。僕は、べろんべろんに酔った叔父さんを連れて、城門を出るところまで来た。すると、後ろから兵士の声が叔父さんの名を呼んだ。「王がみやげを持たせるのを忘れたとおっしゃっています、お引き返しください。」僕とケンタウロスは振り返って、並んだ兵士たちと向き合った。その時だった。ケンタウロスの下半身が出口の方にすばやく向き直ろうとし、何も知らない上半身が置いて行かれそうになってケンタウロスはもつれた。兵士たちはケンタウロスに飛びかかり、城の方へ連れて行こうとした。ケンタウロスの下半身は必死に城門を出るべく暴れたが、もうどうしようもなかった。ふたりは連れていかれてしまった。

 それからどうなったかって。知らないよ。知りたくもない。しかし、叔父さんたちは二度と帰ってこなかった。

 

 

ことばとことばをつなぐ橋:牛尾「TOKYO 2020」

 さっき読んだばかりなんだけど、牛尾今日子さんの短歌連作「TOKYO 2020」(【短歌7首】TOKYO 2020 — 牛尾今日子 – うたとポルスカ (utatopolska.com))が、心地よく心に引っかかっているので、感じたことを急ぎまとめておく。

 

 ポケットに財布の入るジャンパーで外出をする 外出はいい (四首目)

 

「外出はいい」というのは、「外出は要らない」ではなく、「外出はすばらしい」だと読んだ。財布をポケットに入れられるので、手ぶらでコーヒーを飲みに行ったりできる。僕にも覚えがあって、ジーンズのポケットというのは狭くてけちくさいものだ。財布など入りやしない。この悩みが、秋冬になると解消する。

 

 四句目までで詠まれているのは、この一回の外出という単なる外出トークンなのだが(あるいは、タイプだと読めるとしても、秋冬の外出という限定された外出タイプなのだが)、五句目では限定なしの外出一般を称えている。このトークンからタイプへの飛躍に、作中主体の愛すべき軽率さ、そしてその軽率さを促す手ぶら外出のすばらしさを、読者は感じることができる。

 

 とここまで書いたんだけど、僕はこの一首のよい読者ではない。はじめに読んだとき、僕は四句目の後の字空きを見逃してしまい、「~で外出をする外出はいい」と、つまり四句目までが五句目にかかっていると読んでしまって、「すごい!」と思った。ふつうそういうことが言いたいなら、「~で外出するのはいい」と言うはずだ。しかし、僕が誤読した通りなら、冗長な表現――正確に言えているかわからないが、自分を修飾するのに自分自身を使ってしまっているような――になる。これは単に僕の誤読だとしても、この連作には、こうした誤読を許容する雰囲気がある。作者が歌を構成する際に、言語の機能に対しまなざしを向けているのが感じられるからだ。

 

 糸端が裾から垂れるびろびろをむしり取る手に力を込めて (三首目)

 

上の句に注目したい。作者はここで何かを狙ってこの表現をしているのだが、その狙いを自分が読み解けているのか、僕には自信がない。自説を述べておこう。検索したところ、「糸端」というのは毛糸玉の糸の端のことなどらしい。一句目・二句目は、服の裾がほつれて、糸が裾から垂れているのを言っているのだと思われる。

 

 では、「びろびろ」とは何だろうか。たぶん、文法(?)に忠実に読めば、裾があり一定の面積を持つ布のことなのだと思う。というのは、「糸端が〔その=びろびろの〕裾から垂れるびろびろを」と補えるからだ。「びろびろ」というのは、はみ出したりしていてはためく布のことを言うだろうから、「びろびろ」は「裾がある一定面積の布」のことだというのは、受け入れてもよい。しかし、一定の面積がある、しかも裾を持つ布を「むしり取る」場面ってどんなものだろうか。むしろこの一首の場面でありそうなのは、ほつれた糸を「むしり取る」ことなのではないか。

 

 では、「びろびろ」とは「糸端」のことなのか。しかし、文法的にそう読めるのか。例えば、「ラーメンが椀からこぼれるラーメンを」って言えるだろうか。言えるとして、はじめに出現する「ラーメン」と二番目に出現する「ラーメン」が同じものだと読めるだろうか。

 

 たぶん、作者の狙いはここにあるのだと思う。文法(というより、日本語話者が日本語の文を読むときに想定しがちな文の構造についての理論)と、日常生活で通常起こること――それは普通の状況で文がたいてい表現することでもある――についての理論を使うことによって、作者は読者の解釈が定まらないようにしている(ここではDavidsonが言う「寛容の原則」が逆手に取られているとも言えよう)。解釈の定まらなさは、ここでは読者に心地よい違和感を残す。

 

 ほんまそれって敬体で言う言い方も分からないまま言わなくなって (一首目)

 

「敬体」というのは、「です・ます調」のこと。僕は西日本にいたことがないので、「ほんまそれ」というのは関西弁で、関東の人の言う「ほんとうにそうだよね」に相当するのであろうということしかわからない(関西の中でもいろいろな方言があると聞くので、関西のもっと狭い地域での言い方なのかもしれない)。方言のことはまったくわからないのだが、各々の方言にも「です・ます」とは異なる敬体があるのだろう。

 

 「ほんまそれ」の敬体を知らないまま、(おそらく別の方言を使うようになって)「ほんまそれ」を言わなくなってしまった。常体/敬体は日常生活の場面ごとに使い分けるものだろうから、敬体を知らないというのは、日常生活のあるタイプの場面を――敬体なら、立場が上の人と話す仕事の場面などを――その言語の話者としては体験しなかったということでもある。作中主体は、その言語共同体の「成熟した話者」とならないまま、常体と敬体のあいだにかかる橋を構築しないまま、常体も使わなくなってしまった。

 

 2020年のTOKYO アホちゃうかと馬鹿じゃないののどっちを言おう (五首目)

 

しかしどうやら、作中主体の中で、関西弁と標準語のあいだの橋は構築されているようだ。東京はあくまで日本の一都市なのに、「TOKYO 2020」と言われると、東京というより日本のことが想起されてしまう。「TOKYO」が日本になりかわり、その哀れさと滑稽さを背負っている状況を、「馬鹿じゃないの」は東京の人として真っ向から批判している感じが、「アホちゃうか」はもうひとひねりして批判している感じが、僕にはする。どの言語を選ぶかということは、時に、自分が何者として、どんな聴衆に向かって語りかけるかを決めるということだろう。作中主体は、関西弁と標準語をしっかり自分の選択肢としたうえで、どちらを選ぶか考えている。

 

 ことばがどんなふうに話し手と聞き手に作用するか考える。そして、必要な作用を生み出せるように、自分の使えることば同士に橋を架け、使える武器を確保しておく。冷静な表現者はこのことを忘れない――、選択肢がなければ選べないのだから。

 

 

 

 

『Lilith』から好きな歌を三首

 もし、僕を信用してくれるという奇特な方で、日本の本屋さんから本を買えるという人は、悪いことは言わないから今のうちに川野芽生『Lilith』(書肆侃々房、2020年)を買っておくとよいと思う。たぶん後で買っておいてよかったと思う日が来る。

 だいたい、(『Lilith』や書肆侃々房さんの他の本がどうかは分からないけれど)歌集というのはどんなにすぐれたものでも一年か二年で本屋さんから消えてしまったりする。積読でもいいから今のうちに買っておいたほうがよい。一語一語を、その歌が連作中のどの位置に置かれているかに注意しながら、噛み締めるように読んでいくのが一番いいのだろうけれど、手元に本を置いてぱらぱらページをめくるだけで十分楽しめる。

 

 以下では、『Lilith』から好きな歌を三首引用し、短い感想を付す。

 

傘の骨は雪に触れたることなくて人身事故を言ふアナウンス

                          (「老天使」)

 僕の生まれた町では、冬になると毎日雪が降り、人々はうんざりしながら早起きして雪かきし、雪の道をのっしのっし闊歩する。しかし、東京(やたぶん他の都市)は違うということが、僕には小さな驚きだった。東京では二月くらいに突然10cmほど雪が積もり、交通機関は止まり、駅にあふれた人々は殺気立つ。東京の雪の日は、人々の慌ただしさと、愚かさと、一抹のかわいらしさとから切り離すことができない。

 この歌で詠まれている一日もまた、そんな雪の日なのだと想像した。傘の骨は傘の内側に張られているから、通常の使い方をしていれば傘の骨は(たとえ雪の日だとしても)雪に触れることはない。この歌の作中主体もまたきっと、人身事故の現場を直接見たわけではないし、(人身事故が自殺のために起こったとして)その犠牲者を死に至らしめた原因に直接触れたわけではない。通常、私たちはそうしたものに触れることなく生きていく。この読みだと、傘の骨というのは私たちのことだということになる。

 しかし、雪に触れたことがない、と聞くとき、ふと「夭折」ということばが思い浮かぶ。雪に触れることなく、壊れていく傘もあるのかもしれない。そういえば、今電車を止まらせるにいたったこの迷惑な犠牲者は、雪で遊んだことがあったのだろうか。死ぬ前に積もった雪を楽しむことができただろうか。この歌はそんなことを思わせる。地味だが、この本で一番好きな歌かもしれない。

 

ねむるときからだがかるくなるでせうひかうきはあのちからでとぶの

                          (「ひらくのを」)

 「ねむるときからだがかるくなるでせう」――、そんな気もしてくるし、そんなことはない気もする。ここでは、眠りに落ちるとき魂が身体から離れていくという原始宗教にあるようなイメージが、科学技術の象徴である飛行機の飛行と重ねられている。ひらがな表記のこの学説には、子供のひねりだした、ふしぎと筋が通った夢のような説得力がある。確かに、魂がからだを離れていくときの力で、僕たちは飛んでいけるのかもしれない。ただ問題は、一度飛んでしまったら、もう戻ってこれそうにないということだろう。

 

憂愁をかつてきみよりならひしにきみにはなれず グラスを仕舞ふ

                          (「水の真裏に」)

 実は『Lilith』の作者である川野さんとは僕は大学時代の知り合いで、以前このブログで「白昼夢通信」を取り上げたのも、川野さんのご活躍に触れて、感想を書き残しておきたいと思ったからだった。

 この歌が含まれる連作「水の真裏に」のプロトタイプは、『本郷短歌』第四号に掲載されている。『本郷短歌』第四号を編集する過程で、「水の真裏」(改作前のタイトル)が印刷されたプリントを見せていただいたときのことを、まだぼんやりと覚えている。確かその時は、この歌にとくに心を動かされたわけではなかった(ただ、「川野さんの歌にしては分かりやすいな」とは思っていた気がする)。それにもかかわらず、この歌と、同連作中の「ゆゑ知らぬかなしみに真夜起き出せば居間にて姉がラジオ聴きゐき」、それから姉妹が曇天のもと植物園をさまようイメージは、僕の脳裏に消えずに残った。『Lilith』を手に取ってこの連作を読み返した今、何が僕をそこまで引き付けたのか、まだよく分からずにいる。

 暫定的な答えは、「この歌は人間についての普遍的な真理に触れているから」というものだ。「憂愁」のような、ごく個人的な感情とその身振りさえ、人をまねして覚えるものだということ。模倣の対象は、ごく親しいひと、「あなたからでなければ学びたくない」というようなひとでなければならないこと。そのようなひとには、どんなに努力しても追いつけないということ。きっと人には、自分の理想として常に自分の人生に付きまとう影のような存在があるのだ。いや、話は逆で、その人のその理想こそが光で、人は各々その影に過ぎないのだ。僕たちが理想に追いついたとき、光が消えたとき、影たる僕たちも滅びる。

 

 多少狙ったところもあるけれど、好きな歌を選んだ結果、多少奇妙なセレクションになったと思う。『Lilith』の歌の多くは、作者の美しい幻想と、それを作品に仕上げる強力な構築力、凝りに凝った韻律を特徴とする。「ねむるとき~」は違うかもしれないけれど、ここで紹介した歌は微妙にそうしたメジャーな歌からは外れていると思う。しかし、このような歌の中にも、世界と、世界の中の人間とについての謎のヒントが隠されているように感じる。

 

 

 

竜を助けに行く旅:川野芽生「白昼夢通信」

 例えば、映画「ホビット」では、竜を退治するためにドワーフたち、魔法使い、ホビットが仲間になって旅に出る。しかし竜はと言えば、洞窟のような都市の中でひとり眠っている。仲間がいないみたいなのだ。竜はあんなに大きいから、仲間といっしょにいたいと思うと、とても広い場所が必要なのかもしれない。悪役とはいえ、少しかわいそうな気もする。

 竜を殺すための旅があるなら、竜を助けに行くための旅もあるかもしれない。ちょっと違うが、「魔法少女マリリン」シリーズの第一巻『青い石の伝説』には、洞窟に眠る老いた竜を起こしに行く話があった。しかしあの竜もたしか、共に戦った人間の英雄は死に、ひとりぼっちだった。

 

 以下に、川野芽生「白昼夢通信」(水見稜ほか『白昼夢通信』、東京創元社、2019年、所収)の感想を書きたいと思う。このお話には、竜と、竜を助けるために旅に出る人が出てくる。筋が分かっていても楽しめる小説だとは思うが、結末などに触れるので、未読の方で気にする方は注意していただきたい。

 以下でする話が、謎解きのように思われなければいいが、と思う。第一に、以下で述べる感想は作品の前では浅はかさを露呈するだけだ。第二に、謎は僕たちの前に立ちはだかるときにだけ解かれなければならないのだ。「白昼夢通信」の謎は、水のように、読者の中を軽やかに流れる。

 

〇魂の対

 「白昼夢通信」の中には、一つの魂を分け持っているような、対をつくる人物が登場する。

 いつも雪が降っている白い街に住む、人形つくりの花嵐と、淡い色の花がただ一種類年中咲いている街に住む、人形解きの雪柳は、そうした例の一つだ(ちょっと脇道にそれるが、後者の住む街を描写した段落(p. 127上段)は、印象的だ)。死んだ花嵐の魂を解いた後、その魂と海に出かけたきり、雪柳も消えてしまう。二人は対照的な職業を持つほかに、相手が住む街を象徴する言葉を自分の名前としている。

 竜の末裔である瑠璃さんの祖母は、夢の中で、竜の自分が眠っているのを、人間の自分が見ていたという。竜は世界を夢見、その夢が私たちの住んでいる世界だ(夢である僕たちは、自分たちは目覚めていると思っているようだけど。まあ、ここには矛盾はない)。夢の中でやがて、人間たちは竜を殺す。そして竜は目を覚ます(p. 123)。ここでは、竜の自分が夢を見て、その夢の中に人間の自分がいて、夢の中の夢で現実の自分と夢の自分が出会っている、というふうになっている。竜の自分と人間の自分とが、夢を見ている自分と目が覚めている自分とが、対になっている。

 瑠璃さんは、プールで泳いでいた時、底の方からもう一人の自分が、泳いでいる自分を見上げているように思ったことがある(p. 131下段-p. 132上段)。あるとき、プールからの帰りのバスで、瑠璃さんは湖を渡る。その際に、バスに乗るときは一緒だった、水を怖がっていた子供を、湖の向こうに置いてきたという(p. 132上段)。その子供は、目覚めているほうの瑠璃さんだった(p. 140上段)。

 向こうにもう一人の自分を置いてきたのは、瑠璃さんだけではない。のばらさんも、魂を半分、海の向こうに置いてきたという(p. 127下段、p. 143上段)。離れ離れになった魂は対をなす。そして、自分の魂が分かれて対になっているということが、瑠璃さんとのばらさんを対にする。

 遺された、人形のほうののばらさんは、香水の雨が降ると夢を見る。あるとき、夢でのばらさんは、「高い塔の並ぶ半透明の都市」(p. 141上段)から来た女の人に会う。作品は、主にのばらさんと瑠璃さんの間の書簡で構成されるが、別の種類の手紙も混じっている。そうした手紙の一つは、大学生と思われる澪さんが、実家のぬいぐるみであるくるみさんに宛てて書いたものだ。それは、魂を持つ人間と、魂を持たないぬいぐるみの間の通信だと言える(いや、くるみさんは魂を持っているのかもしれないが)。魂を持たない者は、夢を見ないという(p. 133上段)。魂のかけらしか持たないであろう人形ののばらさんも、雨が降るときは夢を見て、魂を持つものと通信ができる。夢は、異なるものが出会うことのできる空間なのだ。

 ひとつ指摘できることがあるとすれば、離れた魂は、この作品において偶に会うことがあったとしても、決して合一を望もうとはしないことだ。哲学には、自分を離れて他者に向かい、結局自分に回帰する、というモチーフがしばしば現れる。しかし、このような予定調和は「白昼夢通信」にはないように見える。魂は、お互いの自律性を敬いながら、離れて、しかし通信はとって、暮らしている。

 

〇夢の流れと竜殺し

 雨が降るとき、人形ののばらさんは人と会うのだった。水は、ものとものの間を隔てているとも言えるし、媒介しているとも言える。もし、この媒介が阻害されたなら、閉じた世界の中で、水は循環をやめ、あたりは湿っぽくなってしまうだろう。

 作中に収められた瑠璃さんからの手紙はすべて、夢を見ているほうの瑠璃さんからのものだ(だが、どうやらのばらさんが普段受け取っているのは、目が覚めているほう、湖の向こうに置いていかれた、人間のほうの瑠璃さんからの手紙らしい)。夢を見ている瑠璃さんは、いつも雨が降っている街に住んでいる。そこでは、文字も人も滲み、電車に乗っても街の外へ出ることができない。

 のばらさんは、目が覚めているほうの瑠璃さんへの手紙で、のばらさんが鬼から逃げていた時、瑠璃さんが助けてくれて、運河から海へ逃げた思い出を書いている。運河は、竜の一族が管理していたものだった。のばらさんは書いている、「いまでも鬼は怖いけれど、瑠璃さんが船で海へと連れ出してくれたあの日以来、わたしはどこへでも行けて、逃げることもできるんだ、と思えるようになりました。〔中略〕あなたが逃げるための翼を持っていることが、わたしにはうれしいの」(p. 134下段-p. 135上段)。

 しかし、運河のある街は、整備されてしまったという(p. 135上段)。想像の域を出ないけれど、たぶん運河も埋められてしまったのではないか、と僕は思う。そしてそのことが、水を自由に行き来する竜の生命を脅かしていたとしても、全く不思議ではない。翼を持つはずの瑠璃さんなのに、雨が降る街から出ることができない。世界は閉ざされ、あふれた水は行き場を失ってしまった。この想像が正しいなら、ここには人間による竜殺しというモチーフが、見てとれるように思う。

 雨の街から届く、滲んだ手紙を見て、のばらさんは海の向こうの世界へ旅に出る決意をする。竜を救うために。

 

〇白昼夢の中で

 目が覚めているときのこの世界と、夢を見ているときのこの世界があり、水は両者を隔てつつ、つないでいる。片方の世界に閉じ込められてしまった瑠璃さんを、のばらさんは助けに行く。のばらさんが人形解きの仕事をしている不思議な街が、どちらの世界にあるのか僕には分からない。しかしたぶん、のばらさんは、そしてたぶん瑠璃さんも、両方の世界を行き来しているように思われるし、本来なら読者の僕たちもいろいろな世界と通信をとることができるはずなのだ。

 僕は「白昼夢」というのは、昼寝したときの夢のことかと思っていた。しかしそれは昼寝ばかりしている僕の誤解で、辞書を引くと、日中に目を覚ましたまま空想を見ることだ、とある。つまり、現実でも、夢でもない世界のことだ。

 作品を構成しているのばらさんと瑠璃さんの手紙は、のばらさんが目を覚ましている瑠璃さんに送る手紙と、夢を見ている瑠璃さんがのばらさんへ送る手紙だと僕は見ている。つまり実は、読者はかみ合っていないやりとりを見ていることになる。夢を見ている瑠璃さんのもとへ急ぐのばらさんは、夢の中まで入っていけるだろうか。ふたりがもし会えるとしたら、それは、夢でも現実でもない世界、世界と世界の境界地、つまり白昼夢の中ではないか。

 あるいはこう考えることもできる。作品を構成するのばらさんから瑠璃さんへの手紙と、瑠璃さんからのばらさんへの手紙は、それぞれ別の世界でやりとりされている。本来交わるところのなかった手紙が一緒に収められている、このテクストこそが、白昼夢なのだと。

 川野さんのこの作品の隠れたテーマは、お互いに異なる、特異な性質を持つ少数者どうしの連帯が、いかにしてありうるのか、ということだと僕には思われる(あるいは、本作とは別の川野さんの活動を知っているから、こんなことを思うのかもしれない)。のばらさんが、瑠璃さんのもとへたどり着けるのか、定かではない。たどり着けたとしても、結局助けることも、助けられることもできないのかもしれない。しかし、各々の夢の中に住んでいる者たちが、行きあうことができる場所があるとすれば、それはたぶん、白昼夢のなかにしかないのだ。この作品の作者には、今後も白昼夢を紡ぎ続けてほしいと切に願う。

 

 ちなみに、この作品の冒頭の文章は、僕にはとても怖ろしく思われた。ここで引用することは避けるが(ぜひ本を手に取ってほしい)、のばらさんが、瑠璃さんに手紙を書くことにしたきっかけを述べるくだりである。例えば僕は、いずれ捨てなければならない時が来ると思うがゆえに、人形を迎えることができない人の気持ちに共感してしまう。のばらさんは、そうではないようだ。しかし夢と現実を行き来できる人というのは、こうでなければならないのかもしれない。

 

前触れだけの夏:笹原玉子『偶然、この官能的な』から

 私事で申し訳ないが、今日、お中元が届いて、箱の中には袋に包まれて四角いドライアイスが入っていた。家には水をためる大きな容れ物がないので、アルミボウルに水を張って、そこに浮かべてみる。煙が勢いよく出るが、ちょっとすると出なくなってしまう。観察してみると、ドライアイスとは違うらしい氷ができている。どうやら、ドライアイスに冷やされて水が氷になり、膜をつくって、水とドライアイスを隔てているらしい。そんなことあるんかい、と書いていて不安なのだが、時々台所のドライアイスに目をやって、煙が出ていないなら水をかける、ということをして、今日の午後を過ごした。

 氷が解けていくのを眺めること。氷水に手をつっこむこと。ドライアイスから盛大に煙を出すこと。どれも素敵なことであるから、こうしたことを提供してくれる氷屋さんは、すばらしく夢のある仕事だ。こんなことを考えていて、笹原玉子さんの次の歌を思い出した。

 

氷売りが扇売りとすれちがふ橋たつたそれだけの推理小説

(笹原玉子『偶然、この官能的な』、書肆侃侃房、2020年。)

 

 作品には、それへの批評が作品をさらに豊かにするものと、そうしないものとがあるように思う。後者のような作品には、例えば、作品を受け取った瞬間に読者が鮮烈なイメージや直感を持つことのみを作者が狙っており、それ以上のもの(解釈など)を必要としない作品などがある。そうした作品は、ただ賞賛すればよいだけで、批評しようとするとつまらない文章ができてしまったりする。

 一見、上に挙げた笹原さんの一首も、そのような作品に思われるし、それはあながち間違いとも言えない気がする。『偶然、この官能的な』の冒頭に置かれたこの作品に出会って、読者はただ、顔に向かって詩の風が吹き込んでくるのを感じられればよい。はじめは僕はそんなことを思っていたが、少し考えるとそうとも言い切れない気がしてきた。簡単にではあるが、この作品の批評らしきものを以下に書く。

 「こおりうり」と「おうぎうり」は、母音を見ると前者はooiui、後者はouiuiで、ほとんど同じだ。また、一句目「氷売りが」と二句目「扇売りと」はともに6音で、これらのことが、氷売りと扇売り、橋の一方からやってきた者と、他方からやってきた者が対になっていることを示しているし、リズムの上でも対称性を読者に感じさせる。また、一句目6音は、長い間を持続させることで氷売りの登場を読者に印象付け、読者が氷売りを脳内に思い浮かべるまで待たせる効果があるかもしれない。

 さて、氷売りと扇売りの二人がすれ違った橋は、どんな都市にあって、その都市はどんな場所にあるのだろう。僕は勝手に、歴史上の中国っぽい、華やかな商業都市を思い浮かべていた。氷も扇も、生活に絶対必要なものではないと思うし、仮にそれらを必要とする人がいたとしても、氷の品質や扇のデザインにこだわって店で選ぼうとする人は、田舎にはあまりいない気がする。

 では、いつすれ違ったのだろう。これも僕は、勝手に、夏にすれ違ったのだと考えている。扇が必要になるのは暑くなる夏のことだし、氷が何に必要になるのかはいろいろある気がするが、需要があるのはたぶん夏だろう。氷売りも扇売りも、夏の間だけその仕事をして、他の季節は別の仕事をしているのかもしれない。こうした妄想が正しいとしたら、氷売りも扇売りも、夏の象徴として現れているのだと考えられる。

 夏の都市で、橋の上で、二人の商売人がすれ違う。たったこれだけの内容の推理小説がある、というのが下の句の言っていることだ。四句目「橋たつたそれだけの」(当然「すれちがふ」は「橋」を修飾しているが、僕は意味上のつながりではなく、なるべく57577のリズムで区切りたい)は10音で、これでもかとばかりに読者に「それだけ」性を印象付けている。二人の人がすれ違うことに、一見何の謎もないし、小説の内容がそれだけなら、当然名探偵も謎の解決もない。それなのに、この小説のどこが推理小説なのか。なぜ、SFでもファンタジーでもなく、推理小説なのか。

 二人の人間がすれ違うことに、何の謎もない、と僕は言った。確かにここに謎はないかもしれないが、しかし、謎の予感はある。それはちょうど、氷売りや扇売りが夏を予感させているのと同じだ。橋ですれ違った後、都市では謎の連続殺人事件が起き、二人もそれに巻き込まれるかもしれない。そして後になって、人は、あのとき氷売りと扇売りがすれ違ったことが、その後に起きることを暗示していたことに気づくのだ。

 謎の暗示は、ものすごくさりげない。氷売りと扇売りは、話をするわけでなく、たぶん「会った」とすら言えない。すれ違うだけだ。すれ違うというのは、複数の人間の間で成立するうちで、最も弱い関係かもしれない。解決篇がないし、ひょっとしたら謎の提示さえないかもしれないが、ほんの小さな、謎の前触れだけはある。この点において、氷売りと扇売りが橋の上ですれ違うだけだとしても、この物語は推理小説でありうる。

 謎の解決が、あるいは夏が、好きだと言う人はいる。しかしそれは勘違いかもしれず、本当に好きなのは、謎の前触れ、夏の前触れなのかもしれない。この文章のはじめで、僕は笹原さんのこの歌を、読んだ瞬間に鮮烈な印象を与える(だけの)歌とも読める、と書いた。そのようにも読めるのは、この歌が切り出してきた「前触れ」が、豊かなイメージ喚起力を持つからだろう。

 

 この文章を企画しているとき、三浦春馬さんの死を知った。彼の出てくる作品はほとんど見たことがないけれど、気になる俳優さんだったので、割とショックを受けている。彼が出てくる作品を見てみたいので、おすすめがある方は教えてください。

 

 

 

 

 

 

 

杉並区周辺のスケッチ(2)

 探偵業を引退した後、エルキュール・ポアロはかぼちゃ栽培に勤しんだという。同じかぼちゃ栽培をわが天職と考える私にとって、ポアロは憧れの存在である。私も今の仕事をやめたら、思う存分かぼちゃを栽培したいと思っているが、実現するか、それはいつなのか、全く見通せないでいる。

 

 私のかぼちゃ栽培は少し変わっているかもしれない。よいかぼちゃを育てるには、よい土が必要である。私は電車に乗って、街へ出る。そして駅で、デパートで、本屋で、よい土を探す。がりがりに痩せていたり、目の下に隈ができていたり、現実の街を歩いているのにまだ夢を見ているかのように見えたり、そんな人物が望ましい。きっとそうした人たちは、ひとたび眠りに落ちればよい夢を見る。私はそうした人々の頭にかぼちゃの種を蒔く。

 

 あとは放っておくだけである。たいていの人は毎日風呂に入るので、かぼちゃに水をやる必要はない。あとは各々の人間が夢を見るたびに、かぼちゃは栄養を吸い取り、育っていく。だいたい六か月くらいで収穫である。頭にかぼちゃが育っている人を、私は簡単に見分けることができる(私が育てるかぼちゃは、独特の芳香を放つ)。私は力を込めてかぼちゃを持ち上げ、土になってくれた人にそっとお礼を言い、収穫を祝う宴の準備をする。

 

 収穫したかぼちゃは、私が独り占めして食べることもあれば、私の友人たちを家に招いて一緒に食べることもある。かぼちゃは煮つけに限る。私たちは夢見心地で食べるが、結局は吐いてしまう。食べ始めはおいしいのだが、食べ進めるにつれてかぼちゃは泥のまずい部分を凝縮したような味に変化する。しかし私が、はじめのすばらしい味わいよりも、この嘔吐のためにかぼちゃを育てていると知ったら、読者諸君は眉をひそめられるだろうか――、私たちは、他人を嘔吐させるために夢を見るのだ。